入選
「高知赤十字病院第7病棟」
前田 哲雄(66)高知県
私は昭和40年、骨髄炎という病気で、高知赤十字病院に入院しました。55年前のことです。小学5年生でした。私は地元の外科病院に3月末から入院していたのですが、完治しないため、養護学級のあるこの病院に、5月になって転院したのでした。私がいたのは、第7病棟という小中学生専用の病棟です。人数は30人を超えていたと思います。病棟と言っても病室は2つで、中学生男子用の小部屋と、中学生女子及び小学生用の大部屋だけでした。大部屋の北側のドアの向こうには、養護教室が1室ありました。
私は転院してすぐに、再手術を受け、細菌に侵された左足
手術後2カ月くらいして、私は膝から下を
動けるようになると、養護教室で勉強をしました。勉強と言っても、先生はひとりでしたので、先生が自分の机の横に来るまで、年長者が年下の子を見てあげるのです。私も教わったり、教えたりしました。小学3年生で、漢字の苦手な男の子がいました。入院生活が長い子でした。私はその子に、鉛筆の持ち方や筆順を、繰り返し教えてあげたものでした。
当時は今のようにエアコンはありません。木造でガラス窓の多い部屋は、夏はまだいいのですが、冬は寒かったです。歩ける子は、部屋の中央の大きな石炭ストーブの周りに集まり、トランプをしたり、漫画本を読んだりして過ごします。私は寒くてたまらない時は、中学生のお姉さんのベッドに上がらせて
上布団をお
お姉さんはベッドの上で
お正月は、三が日だけ、一時帰宅が許されました。私は父が迎えに来てくれて、家に帰りました。お姉さんは、帰らないと言っていました。年が明けて病院に戻ってくると、お姉さんに、お正月のことを色々聞かれました。私は、お雑煮を食べたことや、弟と遊んだことなどを話しました。「お年玉は、もらったの。」と聞かれて、「ううん。」と私が答えると、お姉さんは財布から10円玉を1枚取り出して、渡してくれました。私は、お姉さんを誰も訪ねてこないことを、知っていました。「ありがとう。」と言って、受け取った時、なぜか涙がこぼれました。お姉さんは、「どうしたの。」と言って、
私はその年の4月に、退院しました。病院の入院日数は養護学級の出席日数にカウントされましたので、私は同級生に遅れることなく、6年生として復学しました。
親元を離れ、第7病棟で過ごした1年は、優しさと死が日常にある特別な時間でした。いろんな意味で、私の人生の出発点となりました。
私はその後、大学を卒業し、地元の市役所に奉職して、定年で退職しました。今は、妻とふたりで家庭菜園に
私は数年前から、スイートピーを育てるようになりました。スイートピーの甘い香りは、幼かった私を優しく受け止めてくれた、懐かしいお姉さんの匂いに似ているのです。
現役の頃は、昔を振り返ることはありませんでしたが、穏やかに暮らすこの頃は、感謝の気持ちと共に、昔の人を思い出すことが多くなりました。あの時のお姉さんも、きっと、甘えん坊の男の子はどうしているのかなと、思ってくれているに違いありません。