審査員特別賞
「O先生へ」
相野 正(70)大阪府
あの日、深々と頭を下げて霊きゅう車を見送ってくださった病棟スタッフの方々と先生の姿を忘れることはできません。大変お世話になり、ありがとうございました。
5年前、初めてお会いした時、私たちはお若い先生に、正直一抹の不安を感じました。
別の病院で細胞検査士として働いていた妻は、ようやくその責任の重い仕事から離れたところでした。でもその矢先に、自らの体内に、あろうことかがん細胞が住みついていたことを知り、大きなショックを受けました。
主治医となった先生が、すぐ手術しましょうと言ってくださったとき、妻は「私はがんで逝くのは怖くありません。でもとても痛いことやQOLが保てないような
「お母さん、まだそんなことは。」「いや、最悪は今から想定しておかないと。がんは準備できる病気なんやから。」そう言う妻。私も驚きました。でも先生は「実は僕もがんだったんですよ。」と衝撃の事実を口にされ、「痛い、辛いのは僕も嫌でした。」と笑顔で
手術後、妻は「自分のがん細胞を見たい。」とお願いしましたが「それはできないよ。」と一笑されましたね。でも先生には要望を遠慮せず口にできるようになりました。先生から新しい治療の選択肢を示されても「センセならどうします?」という質問をして「僕ならこれはやらん。」という言葉を引き出したこともあり、正直な人やわと喜んでいました。若いからどうかと思った妻の先生への信頼度は、何でも正直に答えてくれるお人柄と、休日でも病室を
妻は一般論ではなく、私の場合、このがん細胞のこの状態は絶望的なのか、それともまだ普通に生活できる可能性はあるのか、主治医のあなたの見立てを正直に聞きたい。常にそういうスタンスでした。今思えば失礼ですが、もし自信をもって言えないならこれ以上私に過酷な我慢を強いないでほしいとも。
「一日でも長生きしてほしいから頑張れ。」と私が言うと、妻は「辛い思いをするのは私。お父さんやセンセでもない。だから自分で決めたいの。」、そう言い続け、納得の上で妻は、先生と医療を信頼して抗がん剤や放射線治療も受け、あれほど嫌がったストーマも含めて何度もの手術を乗り越えました。それは、妻の意志を知っているはずの先生が「今、これをやらないといけない、これが今のあなたへのベストな提案なんだ。」と
やがて末期だと自覚した妻は、在宅治療、緩和病棟、ホスピス転院などの選択肢を断り、「僕はできればここで最後まであなたを診たい。」と言ってくださった先生に、人生の最期の見届けをお願いしようと決めたのです。先生との間には太い絆ができていました。もう、希望はわかってくれている。あとはお任せですよ、と妻は最期の時を笑顔で過ごしました。私にはやせ細った妻が輝いて見えました。
「もう一週間ないかも。」、残された時間を聞いたとき、私にそう告げてくれた先生の目元に浮かんだ涙を見ました。一人の患者のために涙を浮かべていらっしゃる。この先生に頼って妻は幸せだったと思いました。
妻はそんな先生の立ち会う病室で、優しいスタッフさんたちにも囲まれ、おかげで静かに人生を終えることができました。
先生は妻を「とっても強い、まっすぐな意思を持った人だった。」と表現されました。でも妻は、本当は弱い人間でした。ただ先生の前では弱い自分のままでいて、わがままを言わせてほしかったのだと思います。
「ご主人も体に気を付けてください。」、霊きゅう車に向かって歩く私に先生は声を掛けてくださいました。「センセこそあまり無理をされないように。」、そう答えたのは、妻が言わせたのかもしれません。また「実は今日は私の誕生日なんです。」と言ったことも覚えています。私は今、妻が生き残した人生をあの日から引き継いで生きています。
O先生。改めて言わせてください。
「私たちのたくさんのわがままを聞いてくださり、最期まで寄り添っていただきありがとうございました。これからも妻のように弱い患者さんのわがままをできるだけ聞いてあげてください」