生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第4回エッセー部門

第4回入賞作品 − 一般の部 
厚生労働大臣賞

「私は何者ですか?」

長町 明子(56)福岡県

「手術を受けるか受けないか、決めていただきたいので早急に来院してください。」

 母の一命を取り留めてくれた主治医からの1本の電話。返答までの時間に猶予がないと念を押された。

 前日に救急搬送された母の病名は脳出血。長年の人工透析による動脈硬化が起因し、手術中に亡くなる可能性もある。今回手術が成功しても3年以内に再発する可能性が高い。手術をしない場合には数日内には亡くなられるでしょう、と主治医はCT画像を指し示しながら説明した。1人娘である私に、母の生命の選択が託された。

 看護師である私は、過去に何度も終末期の患者に寄り添った経験があった。迫り来る死に対して無力な患者たちは皆、一様に生き続けられない無念さを私に訴えた。「生きたくても生きられない人がいる」。お別れのたび、私の心にはその遺志が刻まれていった。

 母は失語、右麻痺まひで寝たきりの状態となってしまったが、まだ生きられるのだ。生きられるのに死なせていいわけがない。私が手助けをしさえすれば3年は生きて生命の輝きを分け合える。主治医の説明を聞くまでもなく私の答えは決まっていた。

 敏腕の主治医のおかげで母は大手術に耐え生還した。術後の週3回の透析にも耐え、鼻から管で栄養剤を注入することで命をつないでいた。慢性期に差しかかり転院を促されたが、私は母を家に連れて帰りたかった。母とて帰りたいに違いない、そう信じた。だが寝たきりの母は食事はおろか、水すら口から摂れる状態ではない。家に連れて帰るには胃に直接栄養剤を注入できるよう胃瘻いろうを造設するより他なかった。主治医は私の願いを聞き入れて胃瘻をつくってくれた。こうして母は無言ながら生きて自宅へ帰ることができたのである。

 母が2度目の脳出血で亡くなるまでの7年間、私は母の在宅介護に関して出来うる限りの手を尽くした。私の2人の息子たちも毎週入浴介助を手伝ってくれた。母は声かけにうなずいたり微笑んだりすることもあり、介護はされる者する者それぞれの心に温もりを与えてくれた。私も息子たちも介護そのものに一片の悔いもないと言いきれる。しかし、脳出血の後遺症で言葉を失い、胃瘻を造設して食べる楽しみも失った母は果たして生きていたいと思っていたのだろうか。それどころか死にたいと思っていたのではなかったか?

 母の意思を無視して私が母を生かすことを選択したが、その決断を母自身は望んでいただろうか。母が亡くなった後も私はそのジレンマを抱え続けている。今も母の遺影の前で「お母さん、ごめんね」と無意識にびてしまう自分がいる。

 母の初盆供養も終わったある日、私は胃瘻を造設した90代の老人の担当看護師になった。彼は認知症があり、口数が少ないものの日常会話は成立するし、排泄はいせつの意思を伝えることもできる。独居どっきょだった彼に趣味はなく、ただ甘い物が大好きなのでスーパーへおやつの菓子を買いに行くことを唯一の日課としていたらしい。胃瘻を造設するに至った経緯は不明だが、彼の胃瘻がただ誤嚥ごえんのリスクを回避するためのものであり、本人の意思で造設したものではないことは明らかだった。

 彼におやつはなかった。お茶のたぐいも介助できるのは専任の言語聴覚士と決められていて、他の患者と同じタイミングでお茶を飲ませてもらえる機会は少ない。おやつの時間になると彼は視線を泳がせて、目的地のない車椅子を自操し始める。排泄介助の要請以外で自分からモーションを起こすことのなかった彼がその日急にこちらに向かって車椅子を進め、初めて私の手をギュッと握ってこう言った。

「私は何者ですか?」

 私は「え?」と言ったきり絶句した。彼は続けた。「私だけお茶の1杯も飲ませてもらえない。何故なぜなのか分からない。なんで私だけが除外されるのか...」。理解してもらえるかどうか分からなかったが、誤嚥による肺炎のリスクが高いこと、決して意地悪でお茶を出さないわけではないことを私なりに思いつく限りの言葉を探して丁寧に訥々とつとつと説明した。私の言葉を懸命に理解しようと耳を傾けてくれていた彼は、私が話し終えるとゆっくり目をつむり、うつむいた。何も言葉を発しない。私は胸が苦しくなって思わず「ごめんね。」と言って彼の手をギュッと握り返した。彼は小さく頷いて私の手を放し、窓辺に向けて車椅子を静かにぎ出した。

 程なくして彼は精神科病院へ転院して行った。きっと「何故だろう?」という疑問をたくさん抱えたままで。亡くなってお別れしたわけではないのに、患者との別れがこれほどまでに寂しく、後味が悪いことはかつてなかった。

 呵責かしゃくあえぎ、患者と試練を分かち合いながら、私はこの先も生命と向き合っていく。ただ信念と任務に忠実であるために。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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