生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第4回エッセー部門

第4回入賞作品 − 中高生の部 
優秀賞

「私の人生の師匠」

多賀 絢美(14)東京都

 先生と最後に会ったのは私が6歳の時だったので、もう先生はきっと覚えていないと思います。でも、私はずっと先生の優しくて温かい雰囲気が大好きで、何より私の母を救ってくれたヒーローだから一生忘れません。

 私が1歳の時、母が血液のがんで4カ月入院しました。私はその時のことをほとんど覚えていませんが、退院した後も5年間通院していたので、その度に先生は一緒に行っていた私に優しく話しかけてくれました。私は母の病気の重さも分からず、ただ先生に会えることが楽しみでした。

 私が小学校高学年の頃、懐かしく先生の話をしていると、母が
「そろそろ大丈夫かな。」
と言いながら、闘病していた時の日記を出してきました。私は最初、興味本位で読んでいたけれど、すぐにこんな重い深刻な病気と闘っていたんだと思うと、急に怖くなってきました。母は合計4回の抗がん剤治療と無菌室を繰り返しました。最初、病気を告知されてからの母の絶望感と死への恐怖、そして幼い私を心配する内容で、今の母からは想像もつかない言葉ばかりで私もショックを受けました。でも、読み進めていくと母が病気と向き合う言葉が出てきました。その時、必ず書かれていたのが先生の存在と先生の言葉でした。白血球が下がってしまい面会もままならず孤独な母を病気だけでなく、心も治してくれていることが実感できました。きっと死ぬかもしれないとばかり考えていた母を、病気と向き合わせてくれたのは先生だと思います。特に読んでいて印象に残っているのは、母が抗がん剤で髪の毛がどんどん抜けていって丸坊主にしたとき、先生が
「その髪型もよく似合ってますよ。お化粧をして着飾っている女性より真剣に生きようとする人の方が美しいと僕は思います。」
と、先生が母に言ってくれた言葉です。母は変わり果てた自分の姿に落ち込み、抗がん剤の副作用でボロボロだった時に、先生が言ってくれた言葉で目が覚めたと書いてありました。私も母が前向きになってくれたことへの喜びと、先生のこの言葉の重みに心が熱くなりました。この時から母の日記は、弱音も書いてあるけれど、必ず今日1日を乗り越えて生きるという前向きな言葉がほぼ毎日書かれていました。また、その毎日に付き合ってくれたのが先生でした。副作用でつらい時も、同じ病室の人が急変されて母が明日は自分ではないか?と不安になった時も、必ず先生が母の気持ちに寄り添って助けてくれました。病院が休みの時も私服姿で毎日母が退院するまで朝6時半から7時の間に先生は、母の様子を見に来てくれたことや、学会で先生がいない時に母が熱を出し体調を崩した時も夜遅くに先生が来てくれたことなど、私の想像を超えて母をサポートして母を助けてくれたことを知り、私の中で優しいお医者さんからヒーローに変わりました。

 私が今こうして毎日過ごせているのは先生のお陰です。母だけでなく私達家族が、ごく当たり前の毎日を過ごせているのも、先生があの時母の病と気持ちを治してくれたからです。それに、私は医療ドラマが好きでよく観るのですが、どんなに感動する話でも先生を超えることはありません。絶望から希望を見せてくれた先生の言葉と治そうという強い思いは母だけでなく、私達家族を救ってくれました。

 私は、母の日記を読み終えた後、医者になりたいと思うようになりました。でも、それよりも私も先生のような人間になりたいと感じました。いつも優しくて笑顔で周りの人を癒やせる存在になりたいです。そして、友達が困ったり落ち込むことがあれば、寄り添って少しでも力になりたいし、そこから救い出せる言葉をかけられる人間になりたいです。また、自分の仕事は責任を持ってやり抜く覚悟で努力する人間にもなりたいです。私の中で先生は母の命を救ってくれたヒーローであり、私の毎日の生活の中で、特に友達とのことや学校生活の中で、こんな時先生だったらどう言うのかな?と思うことがあります。そのくらい先生は私の考え方のお手本です。

 人が当たり前のことに感謝して生きるという意味と、物の考え方や周りへの思いやりという人間として大切な心を先生の姿を見て私は学びました。

 きっと今日も先生は自分のことよりも目の前の患者さんと向き合っていると思います。でも、先生も人間だから体調だけは気をつけて下さいね。そして、私が大人になったら必ず先生を訪ねて直接このことを伝えたいと思います。
「私の人生の師匠であり私の目標です。」
と。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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