入選
「医者やっててよかった」
小林 綾己(26)沖縄県
生きていたみたいだ。病院にいるらしい。はじめて目がさめたとき、そう思ったのを覚えている。
そこは救命救急センターという場所らしかった。うつらうつらとする中、様々な機器の音で周囲の話は正確に聞き取れない。見えるのはドアの隙間のわずかな景色だけだった。足りない情報を勝手に脳が補って、現実とも夢とも区別できない混乱の中にあったのだと思う。自分の考える現実の中で、必死に叫び続けた。言っていることは意味不明、感謝の言葉もない、実に横柄な患者だったと思う。
それなのに職員さんたちは、わたしのことをぞんざいに扱ったりはしなかった。救急科の先生はやさしい笑顔で毎日来てくれた。関わる職員さんは皆、わたしの名前を呼んで話しかけ続けてくれた。職員さんたちの多くの働きかけで、わたしは信頼できる場所という安心を手に入れることができた。救命救急センターに1カ月、整形外科の一般病棟に移って5カ月の入院の後、
その2カ月後、整形外科の外来受診で病院を訪れたとき、お世話になったリハビリの先生と救命救急センターの看護師さんに会った。ちょうど昼休み、一緒に救命救急センターまで行ってみようということになった。久しぶりに4階へ上がる。期待と緊張とともにセンター入口の扉の前まで進んだ。出てきてくれた救急科の先生や看護師さんたちは、わたしを見て、「立ってるよ。歩いてるよ。一人で来たんだってよ。」と口々に言いながら、うれしそうな笑顔を交わしている。なんだか少し、照れくさいぐらいだった。
一瞬、先生が何と言ったのか分からなかった。わたしに向かって言ったのではなく、そばにいた看護師さんに言ったのでもなく、スマートフォンに目を落としたまま、先生は本当にぼそぼそと、ひとりごとみたいに小さく言った。もう一度、頭の中だけでその音声を再生してみる。間をおいて先生の言葉が
「写真、みんなに見せていい? 自慢するね。」そう言って先生は忙しい業務に戻っていった。
わたしが立っているだけで、ただ歩いているだけで、ここの人たちはこんなにも喜んでくれるのか。衝撃だった。
学校では、わたしがいなければわたしの大切な人たちがいかに楽になれるか、そういうメッセージが発し続けられていた。そんな苦しい毎日では、生命が助かってよかったかは分からなかった。先生たちとの出会いはうれしかったが、先生たちに「助けてくれてありがとう」とは、まだ言えなかった。きっとこれからも、本気で関わってくれた先生たちの顔がにじんでしまうくらい、明日なんていらない、とたくさん思うだろうなと怖く感じた。だからわたしは、絶対に忘れたくないことを書いて、名札の裏にいれた。「先生の『医者やっててよかった。』という言葉を守りたい」
ひとり帰る夜道、病院の職員さんがしてくれたことを何度も思い出した。忙しい業務の中でも時間をつくって毎日会いに来てくれた、名前を呼んで話しかけてくれた、手を握ってくれた。今でも、目を閉じればまぶたの裏でほほえみかけてくれる。泣かないで帰れた日なんて数えるほどしかなかったが、わたしがすること全てをこんなにも喜び、応援してくれる人がいることは、とてつもなく大きなアドバンテージだった。
名札の裏の紙は、いつしか端がよれて泥の色に染まった。学校を卒業するときがきたら、学帽を
実際に学帽を被って先生たちに会うことはできなかった。新型コロナウイルスの影響である。わたしにそうしてくれたように、先生たちは今も目の前の患者さんに誠実に向き合っているに違いない。いつか会うその日まで、日々闘う先生たちに負けないように、先生にもっと自慢してもらえる自分に成長できるように、わたしも今日に一生懸命でありたい。