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生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第4回エッセー部門

第4回入賞作品 − 一般の部 
読売新聞社賞

「「お年」だろうが、なかろうが」

田中 昭子(82)鳥取県

 昨年秋、60年間我が身の分身として暮らしてきた相棒、主人を看取った。93歳と10カ月の人生だった。「もうお年だったから。」と多くの人に言われたが、「お年」だろうがなかろうが、別れは寂しく、悲しいものだ。今でも書斎の方から「おーい。」と呼ぶ声が聞こえるようで、気が付くと誰もいない部屋に足を運んでいる。

 人は元気な時には、いつもと同じ生活が、いつまでも続くと思っているものだ。「人はいつか死ぬ」、その事実を分かっていても、今日の自分とは関係のないことだと、どこかで思い込んでいるから不思議だ。

 娘家族が帰省し、いつもと同じような正月をにぎやかに過ごした2週間後、まだ楽しかった出来事を全て反芻はんすうし合っていないうちに、突然主人が熱を出した。検査の結果、間質性肺炎と診断され、あっという間に入院となった。久々の入院だった。

 病院生活はなかなか忙しい。主治医の先生や若い看護師さんたちが検温だ血圧だと入れ代わり立ち代わり現れてくださり、静かに横になっていられるような状況ではない。けれど本人は、日々同じ相棒と暮らす日々との違いを、結構楽しんでいるようにも見えた。しばらくすれば家に帰れる、入院前の生活がまた出来ると、私たちは勝手に信じていたのだと思う。しかしこの後、主人は入退院を繰り返すことになる。

 解剖学者として、定年後も電子顕微鏡の写真を撮り続けていた主人には、まだまだ見たいもの、やりたい仕事、整理しておきたいことがたくさんあったはずだ。「死ぬ時には電子顕微鏡にもたれて死にたい。」と言っていたほど、仕事を愛していた。それなのに、歳をとるごとに、徐々に今まで軽々と出来ていた仕事が出来なくなっていった。入院後は目に見えてそれが分かるようになり、手足のようにサポートしていた私からも、出来ることはなくなっていった。入院したばかりの頃は、最初は面会時間ぎりぎりまでかたわらにいて「ああして」「こうして」という頼みに応じていたはずなのに、気付くと、私はそばに座っているだけになっていた。そして、「わしは、生きているのだろうか? 死んでいるのだろうか?」「何もしなくても良いから、そこに居てくれ。」など、寂しい会話をするようになった。気のせいか病院の人たちも言葉が少なくなり、なぐさめるように「お年だから。」という言葉を掛けられるようになった。それはとても悲しいことだった。もう家に連れて帰ることは無理だとも言われたが、どうしてもと無理を言い、7カ月は家で過ごした。老々介護の日々、周りの方々のあたたかい手助けは心に染みた。

 診断を受けてから1年10カ月、たくさんの方々にお世話になり、主人は静かに目をつむった。

 あたふたと人並みの葬儀を終え、娘たちもそれぞれの家庭に帰ると、一人になった。長い入院中も一人暮らしだったが、それとは全く違う、一人ぼっちだ。

 「大往生」「天寿をまっとう」、そんな命の終わり方は、むしろお祝いなのかもしれない。若くして亡くなれば、悲しみや寂しさ以上の、無念さ、後悔なども残るのだろうから、私たち夫婦は幸せな人生なのかもしれない。けれど、どう気持ちの整理をしようと思っても、悲しみが止まらない。大切な人を失った寂しさは消えない。もっと一緒にいたかった。あれもこれもしてあげたかった。そんな思いが日々降り積もる。

 命は消耗していくものではない。100%の重み、尊さで、最後の瞬間まで存在する。消え入りそうな蠟燭ろうそくの火を見つめ続けた1年10カ月に、再確認したことは、そんなことだったように思う。

 3人の娘とは、日々ラインでやりとりをしている。主人の入院をきっかけに始まった「早くよくなれ!」というグループラインを、タイトルを変えずにそのまま使っている。気が付けばみんないい「お年」。私などいつ主人の側に召されてもおかしくはない。けれど、「お年」だろうがなかろうが、この命、今日も昨日と同じ尊さでここにあるのだ。主人から最後に教わったそのことを忘れずに、日々を大切に過ごしていこうと思う。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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