生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第3回エッセー部門

第3回入賞作品 − 中高生の部 
文部科学大臣賞

「医者よりも"癒者"に」

菅野 莉子(17)栃木県

 私は今、難病で体が上手うまく動きません。発症したのは小学校高学年のときでした。  その時の私は、まっすぐ歩けなくなったり、全身が痛むようになったりして、小児科にかかっていました。でも、いろいろな検査をしても原因が分からなくて......。原因が分からないということは、治療に踏み出せないということ。だけど、小児科の先生は毎月必ず予約を取って診察してくれました。「してあげられることがないのが悔しい。つらいのは分かっているんだよ。どうにかしたいのになあ。」行く度に、先生はそう言って私の手を握ってくれました。

 正直、その頃は毎日が地獄のようでした。絶え間なく続く全身の痛みで、夜もまともに眠れない。勝手に涙まで出てくる始末でした。関節痛がひどく、「足がもげる!」と騒いだことも数しれず。そして、そんな状態の中で原因が特定できないことは、自分の辛さを否定されたように感じ、より一層辛さが増していました。だけど、毎月先生に会うと、なぜか少しだけ元気になりました。「救いたい。」という、先生の力強い思いが、その頃の私の唯一の支えでした。

 そんな日々を過ごし、中学生になったとき、私は、病状の悪化によって、いよいよ体が動かなくなり始めていました。そして、小児科の先生の勧めもあり、整形外科にも定期的にかかることになります。そしてそこでも、私はまたお医者さんに支えられることになりました。

 整形外科で出会った先生は、私を診てすぐに「私もどうにかして救ってあげたい。とにかく、笑顔になってほしい。」と言ってくれました。そして、「リハビリにおいで!」と話を進めてくれたのです。本来、リハビリなど特別な治療をするには、病気の原因が分かってからでないといけないのですが、「そんなことは言ってられない。辛いのは誰だって嫌だからね。」と、多少強引にも引き受けてくれました。

 そんな温かい先生2人に支えてもらいながら、少しずつ心の元気さを取り戻しつつあった私。しかし病状の進行は速く、気持ちが元気になっていく度に「早く体も元気になりたい!」と思うようになりました。そして、それは先生たちにも少なからず伝わっていたようでした。

 先生たちは一生懸命になって、私の病気を治療できるような専門の病院やお医者さんと、たくさん連絡をとってくれていました。そして、診てもらえるように後押ししてくれました。それは県外の病院でした。先生のせいではないのに「遠くになっちゃってごめんね。大変だと思うけど、一度診てもらってほしい。」と、頭まで下げて言ってくれたのです。

 私はその後、県外の病院で無事に原因を特定してもらうことができて治療も始まり、今もそこに通院しています。

 もちろん現在も、2人の先生のところにも通っています。先生たちは、いまだに「病気の原因をもっと早く見つけてあげられたら良かった。薬も沢山たくさんになってしまって......。」と申し訳なさそうにしてくれます。だけど、私の病気は専門の先生でも、診断も治療も難しい"難病"だったのですから、仕方がないのに......。

 私は、そんな2人の先生、そして県外の先生など、たくさんのお医者さんに支えられています。そして気付いたことがあります。

 お医者さんは、病気を治療する人だと思っていました。実際そうだと思います。だけど、私が出会った先生たちは、病名などにとらわれずに、私が「助けて!」と言うといつも支えてくれました。SOSをすぐにキャッチして、常に寄り添ってくれました。私が今何に苦しんでいるのか、そのことを常に気にかけ、"笑顔"にしてくれました。2人の先生が、「もっと早く見つけてあげられたら良かった。」と、言ってくれる度に、「それは違う。」と私はいつも思うのです。だって、先生たちはいつだって私を信じて救ってくれました。辛さを分かってくれたのです。絶対に見放さないでいてくれました。病気を治療してくれるだけがお医者さんじゃないと気付きました。

 「医者よりも、"癒者"であってほしい。」というのを漫画で見たことがあります。本当にその通りだと思いました。治療とか、検査とか、そういう技術的なところもそうですが、心に寄り添ってくれる先生たちに出会えた私は、本当に幸せものです。感謝してもしきれないし、今こうして体が動かなくてもキラキラ輝けているのは、先生たちの支えのおかげです。私はこれからも、先生たちのくれた温かいパワーを胸に、一生懸命進んでいきたいと思います。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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