読売新聞社賞
「肌の色をした絵の具」
三品 麻衣(35)東京都
その看護師が私の家での訪問を終える時、彼女の上着にはべっとりと肌色の絵の具がついています。
事件に遭ってPTSDの症状が出た私は、精神科訪問看護の利用を始めました。もとから発達・精神障害を持っていましたが、PTSDになって「いざとなったら、人は私を絶対に裏切る」と信じていました。
「これは、ゴミ箱」
そして、同じようにそばにあった読みかけの本を手に取り、私に見せました。
「これは、本」
似たようなことを繰り返すと、看護師は最後にこう言いました。
「フラッシュバックが起きたら、周りのものをひとつひとつ声に出して確認してください。それと、自分が好きなものを見える位置に置いてください」
早速私は、枕元に大切なキティちゃんのぬいぐるみを座らせました。その隣に電気スタンドを置き、妹が描いたお気に入りの絵を飾りました。その近くに、ダッフィーのぬいぐるみを並べました。
しかしフラッシュバックが起こると、怖くて苦しくて、看護師が教えてくれたことがうまくできないのです。ある訪問日、私はとても不安定でした。
「お願いだから、どこにも行かないで! 今だけでいいから、どこにも行かないで!」
しがみつく私を抱きしめる看護師の腕の力が緩むことは、決してありませんでした。嵐のような苦しみが治まり私の呼吸が落ち着くと、看護師は私の顔を
「麻衣さんのすべてを受け止めたいと思います」
この瞬間、私は自分の心臓をがっしり
この出来事を境に、彼女はだんだん『THE・看護師』ではなくなっていきました。反対に、私はどんどん患者になっていきました。怖いから助けてほしいと泣く私、寂しいからそばにいてほしいと甘える私、そして、看護師が訪問に来ると安心する『THE・患者』の私がいました。それから私は、彼女が来るたびに何度も何度も泣きました。そして、彼女の上着についた肌色の絵の具を何度も何度も見つけました。
いつもよりも激しいフラッシュバックが起きた日のことです。看護師が来た時には、すでにパニック状態でした。混乱する私の頭に、急にふっとこんな言葉が響きました。
----フラッシュバックが起きたら、周りのものをひとつひとつ声に出して確認してください。
私は看護師に頼みました。
「『これ、何?』を言って!」
「これは?」看護師が聞くと、私は答えました。「キティちゃん」
「これは?」「電気スタンド」
「これは?」「お気に入りの絵」
「これは?」「ダッフィー」
聞かれて答えることを繰り返し、最後に目に入ったのは、今この部屋の中にある、一番好きなものでした。看護師が「これは?」と質問する前に、私は思わず口に出していました。
「これは、私の『看護師さん』」
看護師に抱きしめてもらい、身体を離した時、その桜色の上着を見て私ははっとしました。肌色の絵の具の正体がわかったのです。
----これは、私のファンデーションだ......
看護師の上着についていたのは、お化粧をした私の顔に塗ったファンデーションでした。肌色の絵の具ではなかったのです。
----洗濯、大変だろうな。ファンデーションのよごれは、簡単に落ちないもんなあ......。申し訳ないな......。
でも、私は気づくのです。看護師が私を抱きしめてくれた数は、彼女の上着にファンデーションがついた数と同じです。そして、看護師がそのよごれを落とすために上着を洗った数は、看護師が私の心を抱きとめてくれた数と等しいのです。私の「人は絶対私を裏切る」という思いは少しずつ薄まり始めました。いつか看護師が桜色の上着を洗わなくてもすむように、私はこの心の傷から目をそらさずに向き合って生きたいです。