「命の勲章」
山内 千晶(49)福岡県
それは突然の出来事だった。平成28年1月、東京出張から帰福する飛行機の中で感じた違和感が始まりだった。左乳房にチクチクと刺すような痛みが走る。当初は肋間神経痛か何かだろう、と軽く考えていたが、痛みは日を追う毎に熱感を帯び、数週間後には乳房全体が何となく熱り、チクチクの度合いも強くなっていた。その時、頭をよぎったのは「乳がん」。とはいえ私は半年に1度、乳がん検診を受けており、前回は異常なしだった。33歳で急性骨髄性白血病といわれ、その1年半後に再発。骨髄移植を受けた経験から人一倍、体の変化には敏感でリスクも理解しているつもりだ。ともかく、すぐに調べてもらおう、とかかりつけ病院に連絡した。
「うーん、ちょっと気になる所があるね。」先生のその一言で、私は瞬時に事態を悟った。
白血病の再発から10年。やっと人生を落ち着いて考えられるようになった矢先、今また別のがんが見つかるなんて。正直、自分の運命を呪うだけ呪ったが、なったものは仕方がない。その後、検査が進むにつれ、がんは確定診となり、結果、左乳房だけでなく、右乳房にも腫瘍があることが判明した。
先生は「今の状態なら左は全摘。右は温存できます。もし左も温存したいなら、先に抗癌剤治療で小さくしてから手術する方法もあります。」と丁寧に説明してくれた。しかし私の心はすでに決まっていて、「切ってください。全部取ってください。」と即答した。先生は「少し考えてでも良いよ。」と時間をくれたが、早く腫瘍を取り除きたくて「胸より命が大事です。」ときっぱり伝えた。すると先生は「じゃあ、しっかり取って元気になろう。」と私の決断を尊重してくれた。とはいえ手術が決まった3月の入院前夜、覚悟は決めたものの、「乳房を失う」ということが悲しくないはずはなく、「今日一日だけ。」と布団の中で大泣きした。
手術は無事成功。しかし左腋窩リンパ節にも転移があり、右も2か所に腫瘍が見つかった。「思い切って手術を先にして良かった。」とこの時は自分の選択が間違っていなかったと思えて、少しだけホッとした。
温存した右胸の創は大きな絆創膏を貼った程度だったが、全摘した左胸には四折りの布が当てられ、バストバンドできつく固定された状態だった。痛みは鎮痛剤のおかげで感じなかったが、全摘側の創を見ることができない。しばらく入浴禁止だったので、清拭するのだが、創は隠したまま。診察で主治医が創を見る時も、ぎゅっと目を閉じてしまう。もちろん無理に「見ろ。」とは言われない。それとなく「創、きれいよ。」「赤みがひいてきたよ。」と創の状態を教えてはくれるが、なかなか勇気が出ない。我ながら往生際が悪いなあと看護師さんに正直な気持ちを伝えてみると看護師さんは「うんうん。」と何度も頷いて、「そのうち嫌でも見るようになるのだから、無理しなくていいよ。」と優しく言ってくれた。それでも創を見られないことが、なんだか病気を直視していない、受け入れらない自分が透けて見えて苦しかった。
数日後、退院が決まると、やっと入浴許可が下りた。しかし、それは自分の失った乳房を確認することでもあった。かといって一生このまま目を逸らしている訳にもいかない。帰宅して一人、鏡の前に立つよりも、ここで誰かが一緒に見てくれた方が良いのではないか......。そんな思いを看護師さんに打ち明けると「もちろん一緒に見ましょう。大丈夫、創はきれいだから。」と快く引き受けてくれた。
脱衣所で恐る恐るバストバンドを外す。左胸にすうっと紅い真一文字の創。細かく縫合テープが貼ってある。あるべき膨らみはそこになく、ぺたんこの胸が鏡に映っていた。確かに創は想像よりも格段にきれいだったが、ないものはない。「うっ。」と涙が出そうになるのをぐっと堪えていると、看護師さんが静かに肩に手を置いて、優しく言ってくれた。
「この創は山内さんの命の勲章ですね。」
その瞬間、涙がぶわーっと溢れて今まで心の底で抑えていた感情が全部溢れ出した。看護師さんは黙って、ただ私の背中をさすってくれていた。悲しい思い、辛い思い、悔しい思い、全部が流れ切るまで、ずっとそばにいてくれた。ヘタな慰めの言葉より、私の頑張りを褒め、創を勲章だと言ってくれた看護師さんの一言が、私に「自分を生きる」ための気持ちの切り替えをさせてくれた。
あれから3年。幸い、病状は安定。創も薄くなり、真っ平らな胸も見慣れてきた。補正下着で見た目は判らない。今のところ再建も考えていない。鏡の前で自分の胸を見ると、チクッと心が痛むことはあるが、そのたびに「これは命の勲章だ。」と言い聞かせている。あの時、背中をさすってくれた看護師さんの手は、今も私の背中をそっと押してくれる。その言葉はずっとずっと私の心の支えになっている。これからも、きっと。ずっと。