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生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第3回エッセー部門

第3回入賞作品 − 一般の部 
審査員特別賞

「気持ち悪い先生」

田中 彩子(37)東京都

 感じ悪い先生だな。怒りと共に診察室を出た。そして"あの先生"の診察が、私の当たり前になっていたことに気付かされた。

 「どうされましたか?」の言葉を最後に、私に向けられたのは耳。目はパソコンに向かい、ひたすら何かを打っている。一切私に触れることもなく、とりあえずという理由で薬が処方された。診察は以上。そう、医者ってこれが普通なんだよね......。

 "あの先生"とは、以前暮らしていた街の内科医のこと。私は数か月前、住み慣れたその街を離れ、この街にやって来た。今日は腹痛で、初めてこの街の内科を受診したのだった。

 "あの先生"との出会いは偶然だった。その日も目が覚めると、腹痛に襲われていた。私に会社を休むという選択肢はない。上司に電話をして、病院に立ち寄ったらすぐに出社すると伝えた。家から一番近いという理由で、駆け込んだ病院。それが、"あの先生"の病院だった。

 「どうされましたか?」の言葉と共に、私に向けられる目。淡々と症状を伝える私をじっと見つめている。何だか気持ち悪い。

 「ベッドに横になって下さい。」目の下、口の中、爪の色、手の温度、おなか......先生は私のあらゆる箇所を、目と手で確認し始めた。ますます気持ち悪い。

 再び椅子に座るよう促す先生から、怒涛どとうの世間話が始まった。

 「一人暮らし?」「へぇー、ご飯は?」「偉いね、自炊してるんだー。実家は?」「千葉ならすぐに帰れるね。帰ってる?」「帰ってないの!? そんなに仕事忙しいんだ。もしかして、毎日残業とか?」「うわぁー、無理!俺には耐えられないわー。だって、趣味の時間がないじゃん。ところで趣味は?」

 やっぱり気持ち悪い! 何だこの人! ここは合コン会場か。いや、そんなはずはない!

 私は早く会社に行かないとならないのだ。先生の笑顔が余計に私をイライラさせる。最後の質問に「旅行です!」と強めに答えた。私の怒りよ、どうか伝われ。「本当ー!? 僕も、旅行好きなんだー。」伝わらなかった。

 やっとパソコンに何かを打ち始めた先生がボソッと言った。「頑張り過ぎ病かな。」はぁ?初耳の病名だぞ。

 「少し休もうか。今日は診察料いらないから、早く帰って家でゆっくりしな。」

 「え?あのー、薬とかないんですか?」

 「薬なんていらないよー。だって病気じゃないもん。ゆっくり休めば良くなるよ。」
豪快な笑い声が診察室内に響いた。

 「休み! 休み! 今日は会社休みーー!」

 より一層笑顔になった。唖然あぜんとして診察室を出る私に、グッドサインを向けた。

 何だこいつ。既に気持ち悪いを通り越している。何の時間だったのだろう。私はとぼとぼと病院を出た。快晴だった。空が気持ち良いなー、と柄でもないことを思った。心がスッキリしている。私は自然と携帯電話を取り出し、「今日は一日休みます。」と会社に伝えてた。

 再び目が覚めると外は薄暗くなっていた。病院から帰った私は、そのまま眠っていたらしい。硬い床の感触と共に空腹を感じ、夕飯を買いに外に出た。

 何を食べようか。まだボーっとしている。商店街をふらふら歩いていると、目の前に突然、何かが現れた。

 「こんばんは。しっかり休んだー?」

 顔だ。笑顔で私の顔を覗き込む気持ち悪いおじさんの顔! こういう変な人には関わらない方が良い......いや、違う。先生だ!

 「や、休みました!」

 「明日も会社休んじゃってさー、実家の千葉に帰ってのんびりして来なよ。じゃあね。」

 「は、はい。ありがとうございます!」

 グッドサインをして先生は去って行った。ビックリした。今でも心臓がドキドキしている。あまりに一瞬の出来事。何が起きたのか、寝起きの脳が必死に処理していた。

 私のこと、覚えていてくれたってことだよね? 胸の奥からじんわりと温かくなって来るものを感じた。ほっこりするという感覚、久しぶりだな。思わず笑みがこぼれた。そういえば最近、笑っていなかった。

 30代・独身・会社員・一人暮らし。朝起きて、会社に行って、働いて働いて働いて、帰宅。その繰り返しの日々。私はいつからか、モノ扱いされることに慣れ、モノのように時間を過ごし、モノになることを受け入れていた。そんな私に先生は、私が人間であることを思い出させてくれた、そんな気がする。気が付いたら腹痛は消えていた。

 病院を出た私は今、"あの先生"の事を思い出していた。「薬なんていらないよー」と言った先生の言葉の意味をみしめる。受け取った処方箋は、とりあえずという理由でバッグにしまった。私は感じ悪いより、気持ち悪い方が好きだ。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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