「母の宿題 息子の宿題」
浜口 喜代子(70)東京都
息子がポツンとつぶやいた。『他人の心臓をもらってまで生きる意味あるのかなあ』
入院生活も7か月程経ったある日、夕食の準備をしていた私に息子から電話があった。いつもと少し様子が違う。
「あのさあ、移植の話どうしよう?」
消灯までの静まり返った病棟の公衆電話からだ。明らかに涙声である。自分自身の行く末を憂い、長い入院生活も手伝いナーバスになっている。いつもなら「何言ってんのそんな弱気でどうすんのよ!」と発破をかけるところだが、私はそれをのみ込んだ。「ウン、ウン」と聞き役に回る。こんな時母として少しは気の利いた言葉の一つもかけられなかった事が情けなかった。母子家庭の弱みでもある。初めてかいま見た息子の孤独の暗闇だった。
息子は心臓移植手術の承諾を決めかねていた。ペースメーカー装着の際も「機械を入れてまで生きたくねえや!」と強がっていた。やっと友人の後押しで納得したのだ。それもつかの間、もはや移植しかない末期の心不全となる。度重なる決断を迫られていた。
いよいよ医師から説明を聴く、第1回インフォームド・コンセントの日を迎える。2008年3月、息子36歳の時である。
「このままですと後、5年、いやもっと少ないかもしれません」医師は最初から核心を衝いた。これ以上内科的治療は限界である事。移植の利点として息子の若さなら、社会復帰は可能でありほとんどの人が実現していると先の一撃をフォローする。リスクとして免疫抑制剤を一生飲み続ける事、移植までの時間がかかる事等である。他、いくつかの手続きがあるという話になると声は聞こえなかった。統計や数字は確かに説得力はあるが魔物だ。
先ず本人の意思は一番尊重すべきである。ペースメーカーが度々作動し、発作が頻繁になり食欲不振と不安症でガリガリにやせてしまった。点滴棒を押しながらの入院生活は、傍目にも痛々しいものだった。今より少しでも楽になり社会復帰の希望が持てるなら、医師はもちろん親としても強く勧めたい。
たった一人の我が子の命を長らえる唯一の道であり、選択の余地はなかった。今まで入退院を繰り返し、痛み苦しみに耐えてきた本人にしてみれば、先の将来に一抹の不安を抱くのも当然であろう。この移植が明るい未来をもたらす光明となる事を親と子は願った。やがて現在の大学病院から、担当医も同行し移植のできる大学病院へ移った。
2011年4月11日、その日が訪れた。約3年近く人工心臓の助けを借り、待ちに待った日である。奇しくもあの未曽有の東日本大震災から丁度1か月経っていた。
早朝の電話に慌てて受話器を取る。
「移植になります! 8時半までに来院してください」と看護師の声が飛び込んできた。持ち物の確認を念入りにしながら緊張が高まるのを覚えた。まだ余震冷めやらぬ日は続いていた。上京した姉と控え室で待つ間、何度か大きな揺れに見舞われる。その度テーブルの端を掴み、体を固くして低い姿勢でその波を見送った。ICUの扉は揺れる度大きく開かれた。たぶん、いざという時にはすぐ避難できるようにとの配慮かと思われた。手術室の状況が案じられた。一時停止を繰り返しながらの手術であったと、あとから看護師に聞かされた。災害も移植も突然やって来る。重なる不安におののきながら無事を祈った。10時間後看護師が控え室に現れ、手術の無事終了を伝えてきた。息子は39歳になっていた。
移植は成功した。しかし移植前に装着した人工心臓の合併症で脳梗塞を起こし、又新たな病いを発症した。「高次脳機能障害」である。記憶や言語に加え感情のコントロールがきかずすぐキレる等の障害である。ほぼ認知症と同じである。常に一緒に行動する姿は傍目に老夫婦に見える。息子とはいえ50近いおじさんである。そして私は古希を迎えた老婆である。今はこの「老障介護」に苦しめられ、心悩ます昨今である。
命とは脆いものである。崖っ縁を歩いているようなものである。息子が生きる意味を問うてきたが答えなどない。シンプルに命ある限り生きるだけと答えた。あの過酷な状況下で2度目の命を授かったのである。心臓提供者が居て執刀医をはじめその関係者と数えきれない人々が関わり、最新医療の恩恵にも浴した。こんな幸せな事があろうか。これからはなるべく怒らず憎まず、周囲に感謝しお返しの人生にして欲しい。他人の痛みを知り思いやりの心を育てて欲しい。これが息子の宿題である。また、それを手伝い支えていくのが母の宿題である。