入選
「いらない命は ない」
髙本 和昌(79)東京都
ひとつの命の誕生は予定より50日ほど早くやってきて、生まれたばかりの子を私が付き添いの看護婦さんから奪うようにして抱きかかえたのは、たしか揺れ動く救急車の中のことでした。早産で生死をさまよう母親を町の産婦人科医のベッドに置いたまま、世田谷の国立小児病院に向かう救急車に飛び乗っていた私の胸の中には新しい「いのち」がずっと小刻みに震え続けていました。初めての親子の出会い、それはガタゴトと激しく揺れる救急車の中でした。
この時、まさか生まれたばかりの我が子に思いもよらぬ事態が起きようとは私は知る由もありませんでした。3日後の深夜、私は病院からの電話で
6か月ほどして、今度は我が子が病人ではないという理由で退院を余儀なくされました。しかし、当時は生後6か月の障害乳児を受け入れる療育病院はなく、この時ほど途方に暮れた日々はありませんでした。
やっとのことで超法規という配慮で療育病院に入院を許されたものの、土、日は自宅での外泊が必須でした。
しかし、病院と自宅との遠距離の往復は病院の許可が出ない
そこは住居というよりは診療室の延長でした。食機能が不能で、鼻からチューブで栄養を取り、目は閉じたまま、何の感覚を持たない、いわば植物状態だった為、病院から土曜日の夕方は50mほどの道のりを、壊れ物を運ぶような思いで連れてきて、静かに寝かせて、次の日の日曜日の夕方には病院に無事戻すことが使命、看護することは一つの命を預かるということ、いつ息が絶えるかもわからない、その寝顔が突然に冷たくなってしまわないかと、ひと時も油断できない緊張が続く週末でした。
眠っている姿を見ながら、この先、将来ずーっと手足どころか喜怒哀楽も不能、話すことも聞くことも出来ない状態で生涯を過ごさねばならないと思われる延命は本当にこの子の為なのか。あまりにも忍びないではないか。思いあぐねる心の叫びは理性を超え、あってはならない夢想が時折、私を襲っていました。
ある夜のこと、眠っている我が子が私に話しかけている声がしました。誰もいない部屋の
「いらない命は ない」
当たり前じゃないか、そんなこと。今まで何の疑いを持たずに当たり前に理解していた常識言葉だったが、その時は
私は我に返りました。「あまりにも忍びない」と心で何度も繰り返して、あってはならないことを抱いたことがある私は、何と「罪深い父親」だったのかと思い知らされたのです。
知らぬ間に「異常の
今、41歳の我が子。植物人間と宣告され、生後1年以上もベッドの上で身動きひとつ出来なかった小さな命が、今、サザンのCDを自らの手で操って汗だくになって興じています。点滴だけが命綱であった弱々しい命が、今を精一杯に楽しむことが出来るようになろうとは一体誰が想像できたでしょうか。本人の生命力と大勢の人々の支えと励ましに心から感謝せずにはいられません。
誰かが支えれば「ひとつの命」が生かされて輝く。それが妻と私の二人三脚の原動力でした。1日として無駄の日はなかった41年、懐かしく振り返るこの頃です。