生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第3回エッセー部門

第3回入賞作品 − 一般の部 
入選

「いらない命は ない」

髙本 和昌(79)東京都

 ひとつの命の誕生は予定より50日ほど早くやってきて、生まれたばかりの子を私が付き添いの看護婦さんから奪うようにして抱きかかえたのは、たしか揺れ動く救急車の中のことでした。早産で生死をさまよう母親を町の産婦人科医のベッドに置いたまま、世田谷の国立小児病院に向かう救急車に飛び乗っていた私の胸の中には新しい「いのち」がずっと小刻みに震え続けていました。初めての親子の出会い、それはガタゴトと激しく揺れる救急車の中でした。

 この時、まさか生まれたばかりの我が子に思いもよらぬ事態が起きようとは私は知る由もありませんでした。3日後の深夜、私は病院からの電話でたたき起こされました。我が子は心臓が停止し、仮死状態に陥ったということでした。急いで病院に行くと担当の医師が、原因は保育器の酸素吸入器の管がはずれ、約10分くらいの時間ではあったが酸素が途絶えたことによるもので、完全に心臓も止まり、脳細胞は全て壊死えしの状態です。でも両足を逆さにして叩いたら息を吹き返したという説明でした。その日、「脳細胞がほとんど駄目になり重い障害が残った」ということが如何いかに大変な事態であることかを改めて聞かされ、初めて目前の子供の現実を知ったときは、目の前が真っ暗になりました。ともあれ、この時より脳に重度の障害をもつ我が子と妻と3人の生活が始まったのです。

 6か月ほどして、今度は我が子が病人ではないという理由で退院を余儀なくされました。しかし、当時は生後6か月の障害乳児を受け入れる療育病院はなく、この時ほど途方に暮れた日々はありませんでした。

 やっとのことで超法規という配慮で療育病院に入院を許されたものの、土、日は自宅での外泊が必須でした。

 しかし、病院と自宅との遠距離の往復は病院の許可が出ないため、病院のすぐ近くにアパートを借りて、週末は毎週3人で過ごす生活が始まりました。その生活は就学の時期を迎えて退院するまで5年間続きました。

 そこは住居というよりは診療室の延長でした。食機能が不能で、鼻からチューブで栄養を取り、目は閉じたまま、何の感覚を持たない、いわば植物状態だった為、病院から土曜日の夕方は50mほどの道のりを、壊れ物を運ぶような思いで連れてきて、静かに寝かせて、次の日の日曜日の夕方には病院に無事戻すことが使命、看護することは一つの命を預かるということ、いつ息が絶えるかもわからない、その寝顔が突然に冷たくなってしまわないかと、ひと時も油断できない緊張が続く週末でした。

 眠っている姿を見ながら、この先、将来ずーっと手足どころか喜怒哀楽も不能、話すことも聞くことも出来ない状態で生涯を過ごさねばならないと思われる延命は本当にこの子の為なのか。あまりにも忍びないではないか。思いあぐねる心の叫びは理性を超え、あってはならない夢想が時折、私を襲っていました。

 ある夜のこと、眠っている我が子が私に話しかけている声がしました。誰もいない部屋のはず、妙な気で目を覚ましました。目に入ったのは眠っている我が子の横顔とそばにあった見開きのままの小冊子、そのページの真ん中に一つの言葉があったのです。

 「いらない命は ない」

 当たり前じゃないか、そんなこと。今まで何の疑いを持たずに当たり前に理解していた常識言葉だったが、その時はかたわらで眠っている我が子が叫んだ言葉に聞こえたのです。「ぼくは本当にいらない命なのか。お父さん!」と叫んでいる声でした。

 私は我に返りました。「あまりにも忍びない」と心で何度も繰り返して、あってはならないことを抱いたことがある私は、何と「罪深い父親」だったのかと思い知らされたのです。

 知らぬ間に「異常のおもい」に閉じ込められていた恐怖の世界だったのです。私は何と愚かなのか。恥ずかしい気持ちと我が子に対してすまない気持ちでその夜は身震いが止まりませんでした。

 今、41歳の我が子。植物人間と宣告され、生後1年以上もベッドの上で身動きひとつ出来なかった小さな命が、今、サザンのCDを自らの手で操って汗だくになって興じています。点滴だけが命綱であった弱々しい命が、今を精一杯に楽しむことが出来るようになろうとは一体誰が想像できたでしょうか。本人の生命力と大勢の人々の支えと励ましに心から感謝せずにはいられません。

 誰かが支えれば「ひとつの命」が生かされて輝く。それが妻と私の二人三脚の原動力でした。1日として無駄の日はなかった41年、懐かしく振り返るこの頃です。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

過去の作品

PAGE TOP