読売新聞社賞
最初で最後の「愛してる」
大友 かおり(52)東京都
「
91歳の父は昨年まで自宅で母と暮らしていた。日課の散歩は欠かさず、「どこも悪いところがない」が口癖だった。
エアコンの取り付け・販売業を営んでいた父は、柔道で鍛えた体が自慢で、何でも一人でこなしていた。母が口を出すと「うるさいねえ」と怒鳴ることもしばしば。頑固な父を見て、母は「昭和1桁生まれだから仕方ないのよ」と悲しそうに笑っていた。
ただ、数年前から耳がどんどん遠くなり、周りに知り合いも減っていくと、部屋にこもることが多くなった。友達の多い社交的な母と比べ、父はいつも一人だった。
昨年の冬、1人で飲みに行った帰りに階段から転んだことがきっかけで受診。慢性硬膜下血腫と診断された。結局、2度にわたって頭から血を抜く手術を受けた。
2度目の手術後は
入院中、病院側は退院後の父の生活を気にしていた。当初、母は「私が何とかするから」と強がったが、年老いた母に体の大きい父の介護をやらせれば、行き詰まるのは目に見えていた。「施設を頼ろう」。私は決心した。でもそれは、自宅に戻ることを心待ちにしていた父を裏切る行為だった。
両親と近くに住む私が病院との調整、特別養護老人ホーム探しを担うこととなり、気が休まらない生活が始まった。仕事と子どもの中学受験、更年期も重なってただでさえ機嫌が悪い中、病院からは検査結果や補聴器の電池交換など、父にまつわるあらゆる連絡が私の携帯電話に届いた。次第に「今度は何よ?」と心の中で悪態をつくようになった。
転機となったのは、S園のOさんとの出会いだった。介護老人保健施設の調整担当者が紹介してくれた特養の園長さんで、面接の結果、父を受け入れてくれることになった。
S園は築50年以上はあろうかという古い建物だが、実家からは徒歩10分程度と近かった。Oさんは色白で目がぱっちりした女性で、いわゆる「施設長」のお堅いイメージとは真逆の明るい方だった。
入所の日、今度こそ家に帰れると思っていた父は落胆し、S園のロビーに入るなり、「帰るよ」と背を向けた。するとOさんは「どこにお住まいですか?」「私も今度連れて行ってください」と父の目をまっすぐ見つめた。父を入所者の老人ではなく、一人の年長者として尊敬する姿が伝わってきた。
「あなたが園長なの? かわいい顔してるね」。父はそんな失礼なことを言いながら、気付けば一緒に2階の自分の部屋まで進んでいた。
結局、父がS園で過ごせたのは4カ月足らずだった。でも間違いなく、父はこの4カ月で自分自身を取り戻せていたと私は思う。
S園に隣接する病院から、高熱で入院したと連絡を受けてから6日目の夜、父は息を引き取った。ベッドに横たわる父はとても小さかった。私は身内が亡くなるという事実に感情が追い付かず、涙も出なかった。
翌日、Oさんに電話で報告した。そこでOさんが毎日お見舞いに来てくれていたことを知った。「これはお伝えしなきゃと思っていたんですけど」。そう言うとOさんは、こんな話をしてくれた。
父は発熱する2週間ほど前、Oさんの事務所で自分が母に「これまで悪態ばかりついていた。『愛してる』と言ってやれてない」と泣きながら相談したという。「やれてないって何ですか? そういうところを直さなきゃ」。Oさんはこう叱ってくれたそうだ。2人で父の眉間のしわが寄らない練習もしたとか。「その後、奥様にお電話で伝えたんですけど、奥様からは『なーに言ってんの』と相手にされませんでした」。Oさんは楽しそうに話し、続けた。「虫の知らせだったんですかね。印象に残る、とても愛情深い方でした」
父の口から「愛してる」などという言葉を耳にしたことがない私は心底驚いた。と同時に思い出した。私の知る父は面倒見が良く、情に厚い人だった。末っ子の私をかわいがり、私の子ども達のこともよく抱っこしてくれた。それなのに私は自分の日々の生活に頭がいっぱいで、90歳になるまで父の生活を気にかけることはなかった。なぜもっとやさしくしてあげられなかったのだろう。私は涙が止まらなくなった。
葬儀の日、私は夫や子ども達と寄せ書きした色紙を用意し、父の棺の中に入れた。
不器用だけどやさしいお父さん。最後にお母さんに「愛してる」と言えてよかったね。大切に育ててくれて、ありがとう。