生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第9回エッセー部門

第9回入賞作品 − 一般の部 
日本医師会賞

「完治と閉院の日に」

神社 昌弘(47)東京都

 2025年8月13日、暑い夏の午後。
 ポストを開けると、1通の葉書が目に飛び込んできた。差出人は、T医師。

「80歳を超え、10月に閉院することを決断しました」
 そう書かれていた。

 開院から26年。僕は、そのほぼ最初からお世話になってきた。


 20歳の時、繰り返す肛門疾患で8度も手術を受け、1年経っても治らず、消化器専門のT先生の元を訪れた。当時、病院は恐怖の象徴。手術台や検査台は、痛みと屈辱の場所だった。だから、初めて会ったT先生も怖く見えた。

 検査が始まり、内視鏡が挿入される。先生は、生々しい傷跡を見て言った。

「これは大変やったな、痛かったやろ」

 その一言に、胸の奥で何かがほどけた。
 そして、病名が告げられた。

「クローン病」
 指定難病で、現代の医学では治らないと言われた。21歳の僕は、頭が真っ白になり、帰り道を覚えていないほど動揺した。

 父を早くに亡くし、母の重荷になるのではないかという恐れと、先の見えない不安に押し潰されそうだった。

 最初の4年間は、まさに地獄だった。


 固形物は一切禁止。鼻から細いチューブを通し、栄養剤だけで生きる日々。1日分の栄養を9時間かけて滴らせる。何度も挫折し、3度、自ら命を絶とうとした。それでも、母も先生も僕を諦めなかった。

 ある夜、挿入がどうしてもできず、泣きながら先生に電話をしたことがある。

「スプーンで一(さじ)ずつ飲んでみなさい」不味くて到底飲めやしない。反抗もした。
「なんでこんな原始的な治療しかないんだ!」

 それでも先生は言い続けた。
「これが君にとって一番だ。入院せず、自分の生活を守れる方法や」
 その言葉は、不思議なほど胸に残った。治療は苦痛でしかなかったが、先生の言葉には未来を見据える強さがあった。僕が病院に縛られず、自分の足で立っていくために。そのための選択だと、少しずつ理解していった。

 やがて僕は一人暮らしを選び、病院の近くで治療を続けた。母や姉が食事を避ける姿に胸を痛め、孤独と闘いながら、ただ「元気になる」ために。

 それから四季は何度も巡り、僕は、チューブを通す違和感にも慣れていったが、心のどこかでは「この苦しみは一生続くのではないか」と(おび)えていた。

 4年後の内視鏡検査で、先生が言った。
「よく頑張ったな。もうチューブはやめていい」
 その瞬間、全身から力が抜けた。
 解放感と同時に、食べ物への執着は不思議となかった。

 闘病中に本を読みあさり、クローン病患者会を立ち上げ、世界の厳しい環境で生きる人々を知り、すでに「食べられること」そのものが奇跡だと学んでいたからだ。

 あれから26年。今では普通に食事をし、酒も飲む。薬もやめ、指定難病の更新申請も辞めた。

 今年、5枚にもわたる感謝の手紙を先生に送った。

 その1ヵ月後、閉院の知らせが届いた。

 それはまるで、僕の回復を見届けてから病院の幕を下ろすかのように。

 もしあの時、先生があきらめていたら......もし、僕を突き放していたら......今の僕は存在しないだろう。

 先生の冷静さと温かさ、その両方が、何度も死の淵から引き上げてくれた。


 僕の中で、先生は「医師」である前に、人生の恩人であり、命の伴走者だ。先生、本当にありがとうございました。あなたの冷静さと、決して諦めない姿勢が、僕の命をつなぎ、人生を取り戻してくれました。ありがとうの一言では足りない。それでも、言わせてください。ありがとうございます。

 あなたがいなければ、僕は今ここにいない。その事実だけが、すべてです。この命の鼓動が続く限り、あなたから受け取った時間を、誰かの希望に変えて生きていきます。

 最初は定職さえ難しかった僕が、やがて海外で働き、研修を受け、今ではカウンセラーとして独立して10年。これまで3万件の相談に向き合ってきました。

 あの日救われた命で、今度は誰かの命を支える......それが、僕にできる、たった一つの恩返しです。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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