人は支え合って生きてゆく
岩佐 葵(16)神奈川県
祖母は私の中で強さとやさしさを併せ持つ存在だった。祖父が亡くなってからは一人暮らしをしていたが、毎朝決まった時間に起きて台所に立ち、決まった朝食を作るなど、非常に健康的な生活を送っていた。時には近所の人とコーラスを楽しみ、時には私の宿題をのぞき込んで数学の問題の解き方を教えてくれる、そんな自慢の祖母だった。私は漠然と祖母は100歳まで元気に生きるに違いない、と信じて疑わなかった。
しかし、日常は急に崩れ始めた。祖母が認知症を発症したのだ。最初は少し物忘れが増えたかな、と思う程度だった。だが、症状は次第に深刻になり、1日に何度も電話がかかってきては、不安を訴えたり、怒りを爆発させたりするようになった。スマートフォンから漏れ聞こえる泣き声や荒い口調を聞くたびに、私は胸をしめつけられた。遠く離れて生活していることもあり、すぐに駆け付けることもできない。数分おきにかかってくる電話にうんうんと相槌を打ち、ただ祖母の訴えを聞くことしかできない両親は、どうすればよいのか答えを見つけることもできないまま、どんどん疲弊していった。やがて祖母の記憶は大きく欠け落ち、父の名前さえ思い出せなくなった。この事実に、私は深い衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えている。孫である私のことを忘れてしまうのは仕方がないが、父の存在さえ消えてしまうとは想像していなかったからだ。両親は懸命に介護を続けたが、祖母は人が変わったように父や母を責め立てた。そのたびになぜこんなことに、と思わずにはいられなかった。
祖母が認知症と診断されてから、家族の中には疲労と苛立ちがたまっていった。食卓の会話は減り、家の中の空気はどんよりと曇っていった。私自身も、祖母に対してどう接してよいのか分からず、戸惑いや無力感に押しつぶされそうになった。心のどこかで介護は家族の務めという思い込みがあり、それを果たせない自分達に罪悪感さえ抱いた。
そんな折、祖母の部屋で1冊のノートを見つけた。そこには震える字で「自分の頭がおかしい」「死んでしまいたい」などが綴られていた。私達はページをめくるごとに胸が熱くなり、涙が止まらなくなった。祖母の言動に振り回されて、その裏にある苦しみや孤独を見落としていたのではないだろうか。祖母は病気に侵されながらも、必死に本来の自分であろうともがいていたことに気が付き、これまでの自分を恥ずかしく思った。
やがて祖母は施設に入居した。医師や看護師、介護士の方々に囲まれながら、祖母は少しずつ穏やかさを取り戻していった。ある日看護師の方が「認知症の方には、否定せず、安心できる言葉をかけることが大切なんですよ」と教えてくださった。その一言に、私達は目から鱗が落ちる思いだった。これまでどう接してよいか分からず、ただ戸惑っていた私達にとって、暗闇に差し込む光のようだった。またある時は、母にそっと「今まで、よく頑張ってこられましたね」と声をかけてくださった。この言葉に、母は堪えきれずに涙を流した。その姿を見て、私ははっとした。専門的な知識と技術に加えて、こうした温かなまなざしがあるからこそ、祖母だけでなく介護に向き合ってきた家族もまた救われたのだと気が付いた。祖母が笑顔を取り戻していった時間は、私達家族の心が癒やされていく時間でもあった。祖母の記憶が戻ることはなかったが、誰かと心を通わせる時間は確かに残っていた。この時の経験が私に人は一人では生きられないという当たり前の事実を深く刻んだ。
認知症は特別な誰かだけの問題ではない。日本では高齢化が進み、すでに誰の家庭でも起こり得る課題だ。だからこそ、家族の力だけに依存するのではなく、地域や社会全体で支える仕組みが必要だと感じる。支える側の孤立を防ぎ、本人の尊厳を守るためには、多様な人との関わりが欠かせないのではないだろうか。私はこの経験を通して、寄り添うという言葉の意味を考えるようになった。寄り添うとは、必ずしも相手を完全に理解することではない。自分自身を犠牲にして伴走することでもない。たとえ短い時間でも、声をかけ、共に過ごし、相手の存在を認めることが大切なのではないだろうか。そうした小さな積み重ねが、病気や孤独に苦しむ人の心を支えるのだと知った。
祖母の人生の最期の数年間は、決して平坦なものではなかった。苦しい時間も多かっただろう。その祖母が示してくれた「人は支え合って生きる」という教えは、私の中で消えることはない。これからは、この学びを胸に人との関わりを大切に紡いでいきたい。そして、祖母が私に残してくれたものを、次は私が誰かに手渡していきたい。