厚生労働大臣賞
生きたいと強く願い
植山 教子(65)千葉県
人生の伴侶を失った私に親戚の一人が何度も同じ質問をする。「なぜ、あいつは死ななければならなかったのか?」と。夫の病名は伝えていた。
まだ、66歳の若さだった。死去を嘆くあまりの質問に悪意はないと理解している。だが、まるで自己責任を追及するような言葉に心が痛んだ。夫は何一つ悪くない。
この病気が分かった日から「生きたい」と強く願い、1年半を懸命に病気と闘った。そして多くの人々がそれを支えてくれた。その日々を回顧し、ここに
世の中はコロナ禍だった。検診で再検査の通知が届いた夫は、地域の拠点病院で精密検査を受け膵臓頭部にがんがあると医師に告げられた。この病気の5年後の生存率は、わずか6パーセント。「今後は延命治療だけ? もう治せないのですか?」と顔は青ざめた。それでも腐ることなく気持ちを切り替え、この病気について深く学び、自ら主治医に様々な提案を始めた。最初は「量子科学技術研究開発機構へのセカンドオピニオンを」と懇願した。主治医は、「初めてのことですが、調べて必ずやります。私の父だと思うと絶対にやりたいので」と言ってくれた。
幸い治療費の心配は一切なかった。高額ながん治療を安心して受けられる医療保険に複数加入していたからだ。「仕事を続けながら治療をしたい」と本人が希望し、職場の皆様は全面協力。それで心身ともに助けられた。病室にパソコンを持ち込み、リモートワークができたことで気分転換になり、励みにもなったように見えた。
初回の抗がん剤治療から退院した夏は、気力体力共に旺盛だった。近いうちに遭遇する脱毛に備え、医療用ウィッグを早速注文したほどだ。誕生日祝いに娘と息子が自宅を訪れた時、夫は完成したウィッグを被り、わざわざスーツに着替えてお茶目に笑っていた。希望に満ちた笑顔だった。私達家族は、この日の笑顔を忘れることはない。
重粒子線治療は患部から十二指腸が近いとの理由で断られた。治療ができる可能性もあったため半年の間通院したが、夢は
それでも諦めることはなく、がん専門病院をいくつか尋ね歩いた。そんな中、数人の放射線治療医が紹介され、「陽子線」を使用する根治治療を選択することになった。週5日も遠方まで通院し、照射は28回と回数も多く大変ではあったが、この治療で治るかも知れないと大きな期待を持って臨んだ。
陽子線治療の効果は顕著で腫瘍マーカーは健康な人の数値になり、膵臓の腫瘍も画像では燃えカスのように見えた。しかし、喜んだのも束の間、容態は再び変化した。胆管炎から敗血症になり、一時は
その後は、入退院を繰り返したが、病棟では明るく冗談をいい、看護師さんを相手に息子の嫁探しを楽しんでいた。注射などの処置の前には氏名の確認があるが、「名前を聞かれたら福山雅治ですと言ってやる」と、得意のネタも忘れない。しかし、体調は回復せずついに抗がん剤も使えなくなり絶望した。まさにそのとき、30代後半の長女から「私、結婚します」と驚きの報告がきたのだ。夫は挙式披露宴を心待ちに体力回復に努めた。だが、年が明けた頃、本人も命の終わりが近いと覚悟した。春の結婚式までは生きられないと。
娘達が「お父さんに花嫁姿を見せてあげたい」と奮闘してくれた。新郎新婦姿で式場から病院へ乗り込むとの発案。この前代未聞の計画に、病院は温かく許可をくださった。夜勤明けの看護師さん達が病室を飾り付け、花嫁たちが到着すると一緒に祝ってくれたのだ。主治医も駆け付けてくれた。胸が震えるほど感動し、感謝した。
夫が亡くなったのは、この日の夜だった。臨終の姿は笑顔のように見えた。最期の時まで家族を思い、家族のために身を尽くした夫に、私は伝えたいことがある。
「あなたに会えて、幸せでした」と。