「生命守られて」
鈴木 久子(81)京都府
「命の恩人」と世間で言うけれど、私も母からそう聞かされてきた人がある。子どもの頃から「あんたには2人の命の恩人がおられるんやで。」と。
それは戦争末期に流行したジフテリアに感染したのをいち早くみつけて下さった小児科のY先生とジフテリアの血清を提供して下さった耳鼻科のO先生だという。
昭和19年12月、私は5歳。高熱を出し声も嗄れ、母は不安な気持でかかりつけの小児科で診察を受けた。先生は悲痛な面持ちで「ジフテリアです。」と告げられ、すぐに伝染病院へ行くよう指示された。当時山陰の田舎町にも隔離病院があり、それは町はずれの山裾に人目を避けるように建っていた。Y先生のもとからその足で隔離病院に向かい受診したところ、やはりジフテリアと診断され、即入院となった。しかし病院には血清が無かった。当時血清は殆ど軍関係にまわされ、地方の病院や民間の医院へは少々の配給だけでそれが切れれば補充はむずかしいのだという。この病院でも底をついていたのだ。血清は家族で捜すしかないのだという。それから血清捜しがはじまった。両親はもとより離れて暮らす血縁の者たちも伝手を頼ってはたずねまわってくれた。教師をしていた祖父の教え子の医者には大きな期待を寄せたがそこでも良い返事はもらえなかった。血清頼みのこの伝染病、もうこの頃にはみんな諦めていたのかも知れない。しかし、そんな中でも助け合いを旨とした戦争中の隣組の方たち、一人の子どものために町では由緒のある山手の氏神様で御百度参りをして下さったのだ。
その間、何日が経っていたのか、万策尽きた思いで母は再度耳鼻科のO先生を訪ねた。血清のことは最初にお願いをしてすでに無いことはわかっていたが、私が中耳炎をおこす度に通い、ちゃこちゃんと愛称で呼んで可愛がって下さる先生のやさしいお人柄に、今の苦しみを知ってほしい!とでも思う気持ちであったろうか。実情を話すと先生は「大変申しわけない、恥ずかしいことですが。」と前おきされ「わたしの家にも子どもがおり、まさかの時には、と持っている血清があるので、それを提供しましょう。」と言って下さったのだ。血清が手に入るまでに私は呼吸困難に陥っていて気管切開の手術を受けていた。血清と合わせての治療で私の命は救われた。手術の時の緊張は幼い身体にしみついていて今もその場面が夢に現れる。喉の傷に触れると本当だったのだと現実に返るのだが。
その年は終戦前夜の子ども心にも暗い印象の寒い冬であった。母の居ない留守宅では兄姉たちはわびしい正月をすごした。入院中の私は空襲警報の度に母に抱かれて裏山の防空壕に逃げ込んだ。暗さと不気味なサイレンの音、身をかたくする母の力の強さがそのまま伝わって不安であった。
血清と手術によってジフテリアは治癒し、1月半ば退院の日を迎えた。父の退社を待ってのことか、夜の帰宅であった。父が乳母車を押し、母がそれに寄り添って夜道を歩いた。その夜の満天の星は命の峠を越えて蘇ったという感覚を5歳の心に確かに感じさせたのであった。
その後長い年月を経て、私は高校卒業以来離れていた郷里に帰り10年に亘り両親の介護をした。命の瀬戸際を見守ってくれた両親の介護は必要ならば私がしたいと思っていた。戻った郷里で介護をしながら改めて自分の育った町を眺めることとなった。父との遠出の散歩の時には農村部の古い公会堂の土壁に遠い昔に亡くなられている小児科Y医院の看板が忘れられたように残っており、消えかけた先生の名があった。口髭をたくわえたやさしいまなざしの先生の顔が時を経て蘇った。お百度石をみつけたのもその頃である。石を廻り歩く昔の隣組の人たちの姿を確かに見たと思ったのは幻であったろうか。かつて、私の成長の途次には折節に母が私を伴って耳鼻科O先生のもとへお礼に伺ったものだ。元気に育ちました、と。中学入学の時には隣町と合流した同学年の中にO先生の息子さんが居て、「ああ先生はこの子の為に血清を大切に取っておかれていたのだ」と納得したのであった。これらのことは私の記憶と折々に父母から聞いたことどもである。
父は生前あまり感情をあらわにする人ではなかったが、書き残したものの中に「あの時のことを思い出すと今も涙である」と私のジフテリアのことを記していて、それは消え入らんとする小さな命をみつめていた自分であり、その時を救って下さったO先生の苦しい決断を思っての気持ちであったろうと思う。
この10月、82才となる私のささやかな生涯。されど多くの人たちによって守られた命である。おろそかにはできないのだとあらためて思うこの頃である。