入選
「最後の晩餐 」
鈴木 綾子(73)徳島県
「旅立たれた方々を
会場の入り口で、人形たちが出迎えてくれるように並んでいました。その横で主治医だった女医さんが、女の子の人形を胸に抱いて立っていたのです。
「お母さんの作られた人形、イベントの度に使わせてもらっています。」と微笑んで、「もう大丈夫ですか。」と、人形の手で私の肩を
家族を亡くされた遺族の方々が既に集まっていました。医師と看護師と大勢のスタッフの方に囲まれて、全員で黙とうを
奥さんを亡くされたご主人、お母さんを亡くした娘さんなど、それぞれの人の話に同じ思いが込められていました。それは「人生の最期を本人はもちろん家族も共に、幸せに迎えることができました。」という言葉でした。
今まで閉じ込めていた心の内を声に出して話し始めると、不思議に心の整理ができてきたようです。女性の目に
「母は胃がんの末期で入院させてもらいました。食欲のなかった母が突然『うどんが食べたい。』と言うので、コンビニに買いに行こうとしたら、看護師さんが『
そして三度の食事の度に、赤ちゃんのお食い初めのようなかわいいお
『うどん、嫌いだったのに。』と私が言うと、『昔、おばあちゃんの病気が悩みで、願掛けするために、大好きなうどん、
病院の帰り道、黄金色の
「ああ、行ってよかった」と思いました。
母は84歳まで人形教室とボランティア活動で、どこまでも自転車で駆けていくほど元気でした。ところが85歳の春、体調を崩し検査の結果、胃がんの摘出手術を受けました。
医師から余命6ヶ月と言われましたが、私だけの胸におさめました。負けず嫌いな母は「現役のままで死にたい!」というのが口癖だったのです。高齢のため
不思議にも術後6ヶ月目、念願だった人形教室を再開でき、女学生のような歓声が響きました。しかし術後1年目の桜が散り始めた頃、痛みに耐えられず緩和ケア病院に入院しました。襲ってくる激痛を医師が注射で抑えてくれると、すぐに起き上がってベッドの上で人形を縫い始めます。病室の白い壁に飾っていくと、病室が明るく華やいできました。
それをご覧になった院長先生から「患者さんでもできるような手芸を講習してくれませんか。」と言われ、母は目をまん丸にして、「喜んでさせていただきます。」と即答でした。
材料を準備し、当日は予定以上の患者さんで大慌てでした。
病院の七夕祭りに、母は病室に飾っていた人形を残さず提供しました。元のままの白い病室で、水色の短冊に「生涯青春」と書きました。しかし祭の当日は車いすにも乗れない状態で、会場には行けないと諦めました。
その時です。「よしみさん、行きますよ。」と主治医が、母が寝ているベッドのまま、会場まで連れて行って下さったのです。
看護師さんと医師が、母の作った人形で、「おり姫とひこ星」の劇を演じてくれました。母の頰に一筋の涙がつたいました。
祭の3日後です。子と孫に囲まれた母は、細い手をキラキラ星のようにかざして、一人一人に「ありがとう。」と言って、静かに目を閉じました。星降る七夕の宵でした。
若い看護師さんが「こんな庭の花ですみません。」と言って、和紙で包んだ三色すみれの小さな花束を、母の肩に添えてくれました。
すると母の口元が緩んだのです。
「私の最後の
一人の人格をどこまでも尊重して下さり、心のこもった言葉で、患者の不安を取り除きながら、医療を施してくださる緩和ケア病院の医療従事者の皆さまに、今も感謝、感謝、感謝以外、言葉が見つからないのです。