生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第5回エッセー部門

第5回入賞作品 − 中高生の部 
優秀賞

「祖父と共に」

日野 乙葉(16)愛媛県

 朝のホームルームで一枚の紙が配布された。私が通う学校では月に1度、校内放送で人権について考える時間を設けている。その月のテーマは「ヤングケアラー」。放送が終わっても予鈴よれいが鳴っても私はその紙から目を離すことができなかった。

 昨年の3月、私の祖父は脳梗塞こうそくを発症した。それは即座に入院しなければならない程深刻だった。祖父の異変に一早く気がついたのは医療従事者である母だった。唇が左下にただれ、おぼつかない動きをしていた祖父はその日からベッドの上での生活となった。コロナ禍での入院だったため家族の面会すらさせてもらえなかった。学校もなければ、ずっと一緒だった祖父もいない。当時の私はその事実を受け入れることができなかったが、コロナ禍で会えなくても、何か祖父のためになることをしたい。考えた末に私は祖父の趣味である農作業を引き継ぐことにした。祖父はいつもその畑で私のために野菜を育ててくれていた。退院した祖父と、私が育てた野菜を一緒に食べたい。そう思いながら祖父が今まで大切にしてきた畑が荒廃してしまわないように農作業に明け暮れる日々が続いた。

 5ヶ月後、新型コロナウイルスの感染者が著しく増加し、母が多忙となったのと同時に祖父は退院した。久しぶりに会った祖父は瘦せていた。祖父は糖尿病などの生活習慣病の治療も行っていたそうだ。入院先でのリハビリをこれからの生活で無駄にしてはいけない。その一心で忙しい両親に代わり、私が祖父の介護を担うこととなった。まずは食事作り。医食同源と言うようにバランスの取れた食事が健康維持には必要だ。プレッシャーを感じながらも祖父のことを考えると苦ではなかった。

 しばらくして、祖父の健診があった。結果は、体重は5キログラム増加、血糖値なども上昇、入院する前の不健康な体に戻ってしまっていた。「祖父のことを管理する自分のせいだ」「せっかく健康な体になったのに、私が栄養状態を乱してしまったんだ」、そう思い、私は不安と焦りで胸が押し潰されそうになった。私はこの健診を機に、何度も何度も祖父への食事を見直した。それでも検査結果は依然として変わらなかった。実はその原因は祖父自らが用意する食事の質の悪さにあった。砂糖に加工品、塩分の過剰摂取。さらには、私の目が行き届かない場での間食。この事実を母から聞いた後、祖父に注意したが、祖父は笑ってごまかすだけだった。わたしはその時の笑った顔にいつもの愛らしさを感じることはできなかった。健康で長生きして欲しいという私の願いを受け取ってくれない祖父への怒りの方が勝っていた。

 学校が再開されてからしばらくして畑の前を一人で通った。祖父の畑は雑草が生い茂り、支柱が傾いていた。その時の畑の有り様はまるで私の心を表現しているかのようだった。農作業に手がまわらなくなったことに罪悪感を覚えはしたが、祖父のあのごまかしの笑顔を思い出すと、張り切っていた当時の自分が馬鹿馬鹿しく思えた。

 校内放送が終わり、教室が騒がしくなり始めた時、担任の先生が私にこう言った。

「お前はヤングケアラーに当てはまるのか。」

 私は以前に祖父の介護を行っていることを伝えていた。私はその時初めて自分自身がヤングケアラーの対象となっていることに気が付いた。ヤングケアラーとは介護などの世話や本来大人が担う家事を余儀なくされ、自身の生活に支障をきたしている子どものことを示すとその放送で知った。ほとんど毎日の祖父の介護は当たり前になっている。悩むことが当然だと思っていた私は、担任の先生から尋ねられたヤングケアラーなのかどうかという質問を肯定することも否定することもできなかった。

 祖父はよく食事の時、私に対して、
「いつもありがとう。ごちそうさん。」と言う。その姿はやはり、幼い頃から見てきた大好きな祖父そのものだ。この祖父の言葉を耳にするたび、自分が抱く祖父への思いにハッとする。私がヤングケアラーとなった一番の理由は祖父に長く生きて欲しいからだ。そんな私の思いに応えてくれない祖父に、腹が立つことはあるし、どうして私がという思いを抱くことだってある。でも、祖父と毎日共にいることができる時間は唯一無二の時間である。

 荒れさせてしまった祖父の畑をもう一度手入れしようかと思う。自分の荒れた心を耕し、明るく前向きな気持ちで祖父を支えたい。一人の孫として。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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