生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第5回エッセー部門

第5回入賞作品 − 一般の部 
日本医師会賞

「「わたし」の肯定」

小松﨑 有美(37)埼玉県

 兄がいなければ。兄が病気になんかならなければ。兄が筋ジストロフィーと診断されて30年。私は幾度もそう思って生きてきた。

 この病気は現在に至っても、治療方法、薬の開発に至らず、不治の病とされる。案の定、兄は10歳で歩けなくなり、20歳で寝たきりに。6年前には人工呼吸器をつけ、翌年には喉頭気管分離手術、胃瘻いろう造設術も受けた。今は、ほとんど自分の身体を動かすことができず、日常生活においてほぼ全介助が必要だ。

 兄の病気を巡っては様々な葛藤かっとうがあった。親戚たちからは世間体が悪いと言われ、盆暮れ正月の帰省を断られた。私自身も7年前、婚約者のご両親から「障害者がいるお家はちょっと。」と言われ、結局破談になった。翌月にはうつ病を発症し、処方された睡眠薬を30錠飲んで高度救命救急センターに搬送された。2時間ほど胃の中を洗浄する処置を受け意識が戻った時は、思わず「たすかっちゃったのか。」と言った。母は泣きそうな顔をしていた。

 それからというもの全てに対して無気力になった。風呂も入らず一日中ベッドで天井を見上げるような生活をした。隣の部屋では同じく兄が天井を見るだけの生活をしている。

「オムツをかえますよ。」

「体を拭きますよ。」

 母やヘルパーさんの声がする度、兄ばかり可愛かわいがられているようで嫉妬しっとした。昔からそうだ。病気だから仕方ない。そう思っていたけれど、やっぱり、悔しかった。

 ただ兄も紆余うよ曲折を経てここまでやって来た。完全に歩けなくなると大好きだったサッカーをやめ、呼吸器を強くするために吹奏楽部に入った。「なんでこんな身体に生んだんだよ。」と母に言ったのは後にも先にも一度しかない。それは吹奏楽の強い高校への入学を拒否された時だった。病気の向こうに立ちはだかる、社会のハードルは思った以上に高く、進むべき足をもぎ取られるようだった。

「筋ジストロフィーの患者さんは治療法もないんだから、そんなに頻繁に来なくてもいいよ。」と、大学病院で言われたときは皆でショックを受けた。

 だが兄は人工呼吸器をつけてからも新幹線に乗って「絢香」のコンサートに行ったり、飛行機で北海道旅行もした。自分で介助者をつけ、車椅子の寸法なども窓口に伝えて座席を確保した。まるで自分の存在を社会に認めさせるかのように。

 だが今はもうかなわない。一日中ベッドに横たわり、死を待つような状態だ。ただ意識ははっきりとしている。何かあればかろうじて動く右手の人さし指でコールを鳴らし、ひらがなのボードに目線を動かして「言葉」を発する。

 先月ヘルパーさんによる年に1度の聞き取り調査があった。そこで兄は「趣味や希望はありますか。」と聞かれたらしい。何だかすごく不謹慎な質問。しかし兄は「長生きをすること。父が42歳で逝ったから、僕はそのとしをこえたい。」と言ったそうだ。それを聞いて目頭が熱くなった。何でも病気のせいにしてきたが、それは間違っていた。胃瘻が何だ。人工呼吸器が何だ。寝たきりが何だ。生きることはただそれだけでいいんだ。そんな兄の心の声が聴こえた気がした。

 人間は自ら望んで生まれてきたのではなく、自分の運命すら選択できない存在だ。筋ジストロフィーの患者たちは歩けなくなった時点から、人生とはなんと納得のいかない不条理なものかといった実感を抱いている。だからこそ残された器官で、残された時間を懸命に生きることが、受け入れがたい現実を受け入れるたった一つの道なのかもしれない。

 まだまだ、いけるよ兄貴。

 いっちゃえよ、兄貴。

 嫉妬や葛藤を抜きに、少しだけやさしくなれる自分がいた。

 今も日本には約2万5千人の筋ジストロフィー患者がいる。現時点で根本的な治療薬はない。病気とわかった日から、家族が患者に変わり、その人と共にあった暮らしが変わり、家族の人生が変わる。だけどそこには2万5千通りの生き方があり、幸せのカタチがあり、笑顔があって欲しいと思う。人生の価値を決めるものは、他者ではなく、紛れもない自分なのだから。

 この秋、兄は亡くなった父の年齢になる。私も障害者手帳を申請した。

 今はただ天井を見上げる生活を、静かに、肯定したいと思う。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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