審査員特別賞
「余命宣告から三十年」
矢野 富久味(72)高知県
「ニクシュ⁉」、反射的に先生に問い返した。
「どんな病気なのでしょうか?」
「がんの親戚みたいなものですね。」
先生はカルテに視線をおいたまま、さらりと答えた。とたんに診察室の空気が一変し、看護師さんの口調が急に優しくなったような気がした。
手術をしないと、あと3カ月。私が高校生の時、祖母が子宮がんで宣告を受けた時と同じK市民病院で、24年後に私も同じ宣告を受けるとは!
祖母は当時74歳だったが、すでに進行しているので手術は難しいと言われ、入院して放射線治療を受けた。
県庁所在地にあるその病院までは、バスと電車を乗り継いで3時間以上かかったが、私もお見舞いに行った。付き添いしていた祖父の方が、「
痩せて見る影も無くなって、いよいよ最期の日々は家で過ごさせたいと、退院してきた。
学校から帰ると夜になったが、私はいつも祖母の傍らに居た。子どもの頃、祖母がいつも昔話をして寝かしつけてくれたように。
不思議なのだが、骨と皮のような体で寝たきりになっても、祖母は「私は死なんぜ。」とはっきり言葉にした。大きな岩があって、光が見える。自分は守られている、と言うのだ。
母など葬儀の日をいつ迎えても慌てないように、和室の障子を張り替えて準備していたが、祖母はほんとうに言葉通りに快復して、畑仕事をするほど元気になった!
役場の保健師さんはじめ、見知らぬ人まで祖母を訪ねて来るようになった。どうしてがんを治したのか? がん患者の家族は誰しも、
祖母は86歳まで元気に生きた。その姿を見てきたので、
病気休暇を取るために診断書をもらい、外に出ると街の景色がまったく違って見えた。
見慣れた当たり前の景色も、日々の暮らしも愛おしい。生きていることは、奇跡だ。
病気休暇が取れたので、セカンドオピニオンで他の病院も受診した。
ところが、先生の口調は歯切れが悪い。肉腫であるとも無いとも、はっきり言わない。疑いはあるが断定できないとおっしゃる。
専門の病院を調べたり探したりしては、受診を繰り返した。大学病院やオーリングテストなんていう初めての検査まで受けたりした。まるで、多数決で病名が決まるみたいに。
7院目の診断結果を聞いた帰り道、「何やってるんだろう私」と一人苦笑した。手術するかしないか、決めるのは私だ。私には、祖母のように大きな岩も光も見えないが、余命宣告は何か大切な意味があることだけは分かる。
手術しないと決心すると、急に心が軽くなった。生まれ育った山の村に帰ろう!
県内唯一の国立中学校での仕事はとても楽しかったけれど、睡眠時間も削る忙しさだった。過労死ラインを超えている。
豊かな自然だらけの村で、すべてのいのちを大切にするコミュニティを創って、食住衣を自給する昔ながらの暮らしに戻ろう。
母校が廃校になり、その跡を譲り受けた時、いつか夢を
1996年2月、校庭の真ん中に自分で設計した自然木と
その中の一人、K市からやって来た木工作家と意気投合して結婚し、家具類はすべて土佐ヒノキ間伐材で手作りしてもらった。
カチンカチンだった校庭に、裏山から腐葉土や枯れ草を運び、ふかふかの畑にした。果樹、小麦、野菜、お茶、ハーブなど、100種類以上を完全無農薬自然栽培で育てている。
毎朝起きるとすぐ庭に出て、今日は何を食べようかなーと
お米は近くの棚田で育てている。メダカやホウネンダワラミニアメバチ、コオイムシなど、小さな生きものたちがいっぱい!
余命宣告を受けて30年。毎年特定健診を受けているが、今のところはすこぶる元気だ。コロナにもインフルエンザにもかからず、さまざまな活動を日々夢中で続けて生きている。
ひきこもる青少年自殺予防の「居場所」運営や、殺処分される犬猫たちの保護譲渡活動など、「いろんなことをしていますね!」と驚かれるが、私にしてみれば全部つながっている。
生きていれば、なんとかなる!