生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第7回エッセー部門

第7回入賞作品 − 中高生の部 
優秀賞

「言葉」

福島 悠楽(14)千葉県

 ぼくの母は、ぼくが2歳の時、乳がんが見つかった。リンパ節転移があり、すぐに抗がん剤治療が始まった。母は、ぼくの成長を見なければと思い、生きる為に気持ちを奮い立たせた。「あなたがいたからがんばれた。あなたは命の恩人。」と、母は時々ぼくに言う。

 そんな母も、病院の先生の前で、「本当に治るんでしょうか。」と泣いたことがあったそうだ。先生はすぐに緩和ケアの先生につないでくれて、たくさんの先生や看護師の方に助けられながら母は治療を続けた。

「抗がん剤や手術の痛みはどうということはない。体の痛みよりあなたの成長を見届けられないかもしれないという心の痛みのほうがずっとずっと大きかった。」と、母は言った。

 抗がん剤治療や手術が終わっても再発の不安は続き、がん患者の心のつらさを助ける精神腫瘍(しゅよう)科の医師や看護師さんに、たくさん話を聞いてもらったそうだ。

 ぼくも、小学5年生の時に、右ひじの骨折で手術をした。初めての手術、ぼくは心臓がはり裂けてしまいそうになった。この極度な緊張で心拍数が150に達した。それと同時に大きな「孤独」が押しよせてきた。「これからぼくはどうなってしまうのか......」。ぼくの中には「不安」と「孤独」しかなかった。母は、これの何倍、何百倍、何千倍の「不安」と闘ってきた。だが、時には心が折れてしまいそうな時もあった。そんな時には、様々な医療関係者の方々に支えられながら、巨大な「不安」や「がん」に打ち勝ったのだ。

 1度目の手術、整形外科の先生に「手術どうだった?」と聞かれて、母は「手術の間ずっと孤独だったそうです。」と答えた。

 初めての手術で、「機械の音は聞こえるけど、ずっと孤独だった。」と母に話していたのだ。

 その後、もう一度ひじに入れたピンを抜く手術が行われた。その時、先生は、手術台の上に横になっていたぼくに、その時にとてもはやっていたアニメの話をしてくれたり、看護師さんが手術の緊張をすこしも感じさせないようにいろいろな話をしてくれた。ぼくの「孤独だった」という言葉を覚えていてくれたことがわかり「孤独」なんてキレイサッパリふきとんでしまった。

 手術が終わり、手術の傷が治ったころにはすっかり腕が伸びなくなった。ぼくは、腕が元通りになるかとても心配になった。リハビリを始め、ぼくの腕を担当してくれたお兄さんはとても明るく、いつも楽しい話をしてくれて、リハビリが終了になった時は、さみしくて泣いてしまいそうになった。

 ぼくの右ひじもまっすぐ伸びるようになり今は、剣道やピアノも問題なくできるようになった。

 ぼくは、様々な人に助けられて生きている。

 あれは、ぼくが6歳の時。

 母と一緒に箱根に行った時のことだった。

 テンションが上がってしまったぼくは、まだ幼い体でゴツゴツとした傾斜を全力で走ってしまったのだ。

 次の瞬間、ぼくは、頭から地面に転んでしまった。うろ覚えの記憶だが、目の前がまっ赤に染まるほど流血し、手や服、地面にまで血がしたたる、もはやドラマに出てくる殺人現場のようになったのだ。

 流血しているぼくを見つけてくれた、庭を整備していた人がぼくの頭にバンダナを巻いてくれた。その後、ぼくを受付まで運んでくださり、受付にいたお兄さんがぼくを病院まで車で送ってくれた。病院でホッチキスをする時も、ぼくが怖がらないように、看護師さんがぬいぐるみなどでぼくの気をそらしてくれた。ホッチキスを取り除く時も「痛かったら泣いていいんだよ。」などの優しい言葉をかけていただいた。

 母は乳がんが見つかった時、ぼくのランドセル姿を見るのが目標、中学生になった姿を見ることは夢のまた夢で、想像することもできなかったそうだ。

 ぼくは中学生になり、母は夢のまた夢を(かな)えることができた。

 母の病気もぼくの骨折も、大きな支えになったのは、病院の先生や看護師さんにかけてもらった「言葉」だ。

 薬は病気に効果があるかもしれない。だが、どんな万能薬でも、心の傷までは癒やせない。心の傷に効く薬はただ一つ、「言葉」だ。

 母もぼくも薬では治せない心の苦しみを、たくさんの「言葉」で治してもらった。

 ぼくも、「言葉」で治してもらったように、苦しんでいる人がいたら、心に寄りそい、優しい「言葉」をかけられる人になりたい。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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