文部科学大臣賞
「生命と私、それから皆」
山崎 恵里菜(12)埼玉県
私は秀明学園に通う、中学1年生の女子です。まだ骨折さえ一度も経験したことがなく、注射は大嫌いです。しかしそんな私にも、生命と真剣に向き合った経験があります。
初めて生命について深く考えたのは、8歳の頃でした。当時はまだ、両親と3人でアメリカで暮らしていました。そうしたある日、父は急に足の親指に異変を感じたそうです。医者は当初正常と見なし、私も変わらず学校生活に励んでいました。ところがある日、母はいきなり真剣な顔で私を呼びだしました。その時の言葉は、今でも忘れません。「お父さん、がんになっちゃったんだ」。それから毎日、父の
ある日、私と母は病院に泊まっていました。すると急に耳鳴りがして、視界がぼやけてきました。周りの騒音が倍以上大きく聞こえ、気づいたら泣きじゃくっていたのです。母はひたすら「大丈夫だよ、大丈夫だよ。」と励まし続けてくれました。その翌朝、1月15日の火曜日、パパは天国へと旅立ちました。まだ幼かった私は、病院でも、家でも、お葬式でも泣きませんでした。「まだお母さんがいる」と、そう思ってばかりいました。
それからすぐ、母と私は日本に帰国しました。しかし、その穏やかな生活も長続きはしませんでした。インターナショナルスクールに落ち着き、日本の生活にも徐々に慣れてきた頃、母のがんが発覚したのです。しかも
「来年は一緒に行こうね。」
そんな母の言葉を、私は信じていました。
数カ月ほど経ち、母は入院しました。残された私は祖父母の家に送られ、毎週1回お見舞いに通いました。しかし会いに行く度に母の体は弱り、父と同じようにクマができ、細くなっていくのが分かりました。
「大好きだよ、大好きだよ。」
母はそう言い続けながら、骨まで見える腕で私を抱きしめてくれました。ついそんな母を見ていると、「こんなのお母さんじゃない」と心の中で否定してしまう自分がいました。
2021年の12月13日、ママも天に召されました。急いで病院に向かうタクシーの中で必死に打った最後の感謝のメッセージは、今でも覚えています。でも結局メッセージは届かないまま、母は逝ってしまいました。病院に着いた途端、私は号泣しました。この世で最も一番愛していた父と母がいなくなった世界は、とても惨めで狭苦しい世界になってしまいました。一人きりでこの先の道を進むのは、無理だと確信したのです。
しかし、その絶望の日々はある一冊の本との出会いによって照らされました。辛い気持ちにそっと寄り添う「『死にたい』『消えたい』と思ったことがあるあなたへ」という本です。数ある中で最も心に響いたのは『過去にも未来にも心を飛ばさず、今この瞬間に心を留め置くことで誰でも瞬時に幸せになれる』という言葉です。苦しい時は大体過去か未来のことを考えており、「今この瞬間」だけに執着すると落ち着いて楽になれる、という意味だと解釈しました。傷つき、疲れてどうしようもなくなった時、意識を自分の呼吸だけに向けると、あっという間に心が軽くなるのを感じました。
人間は誰でも、必ずいつか死が訪れます。私たちは常に死と隣り合わせで生きており、急に亡くなってしまう未来なんて怖いくらいにどこにでもあるのです。そう考えると、生命は本当に貴重で大切にしなければならないものなのだと実感します。でもそんな限りある世の中でも、生きている間にできることは無数にあるはずです。何ができるか、どうしたら人の役に立てるか、私はずっと考えていました。そして決めたのです。精神科医になって、将来を背負う子どもたちの生命を救ってみせると。まだ実現化する日が遠いとしても、いつかは必ず夢を果たす。そう誓いました。
私にも生命を大切に考えられない日など、数えきれないほどあります。「一晩乗り越えるだけで精一杯、私に居場所なんてあるのだろうか」。そう考えているといつの間にか抜け穴を見失ってしまい、「病」という空間の中でさまよってしまう自分がいます。そんな不平等だと感じる世界の中でも、私は父と母の遺骨を封じたペンダントを胸に抱きながら、今日までを生きてきました。いつかは必ず幸せがやってくる、そう信じて私はいま、生命を見つめながら未来を歩んでいます。