読売新聞社賞
「いずれの道」
西川 かつみ(58)京都府
野菜ジュースで始まる朝食から自家製お弁当、夕飯も毎食手作り、お酒もたばこも口にしなかった。睡眠不足と少し働き過ぎという以外、病気になる理由が思い当たらなかった。なのに......。
「乳がん? ステージⅣ? 骨転移? 何それ?」
医師より伝えられた瞬間、悲しみより、怒りに近い感情が口から吹き出しそうになるのを必死でこらえた。平成31年の盛夏。
「先生、末期がんって? 私まだ働けます!」
主治医は黙したまま、CTの画像を指さし、
「右胸全体の白い
「延命って......私は死ぬのですか。」
質問は声にならず、ただ唾を飲み込んだ。
「余命宣告でしょうか?」
カラカラになった喉から、言葉を絞りだした私を、気の毒そうに見つめる主治医と看護師さん達がいた。部屋の壁が灰色に揺れて、私は意識が遠のき始めたのを感じた。
「大丈夫ですか?」
看護師さんの優しい手が、私の腕にまかれた血圧計をフウフウとやさしく膨らませてくれていた。
「大丈夫じゃないようです。この先、どうしていったらいいのか。凄く混乱しています。」
そこまでいうと、
子どものようにしゃくり上げる私の右手を、看護師さんは強くにぎってくれた。
「一番好きなことをされるのも良いですよ。」
と声をかけてくださった、優しい慰めの声になぜかは分からない苛立ちと絶望感。自分でも不鮮明で理解不能な感情が涙を押し戻した。
次の通院日まで、私は人生で初めて引きこもった。スポーツドリンクだけしか喉を通らず、布団から起き上がる気力もなく天井を眺めて過ごした。死んだように生きた。
私が過ごした30年は高校数学教師として、受験指導にあけくれた30年だった。
闘病から1年して、私の両足の足首から先と、利き腕の右手の親指は薬のせいか、
「身体、赤点。」
「学力も最近難問解いてないから。」
ふと、障害者の施設でずっと暮らしている姉の顔が浮かんだ。闘病に入ってからは、自分の事ばかりで、会いにも行けなかった。ずっと昔、姉を助けるために養護学校の先生になりたいと作文に書いて、参観日にそれを見た母が凄く喜んでくれたことを思い出した。胸がじわっと温かく緩んだ。姉のことを人に話しづらいと感じた若かった日の自分を恥じた。自分がどの道に生まれたのか、古い記憶が教えてくれるような気がした。
「いずれの道も死にいたるなら、どの道の上で私は死にたいのか?」
自分に問うた。突然、特別支援教育の勉強がしたいという思いがこみ上げた。声に出してみると、それは胸に染みた。
私は通信制大学に入学手続きをとった。ただ毎日を、したいこと、精一杯今できることで埋め尽くしたいと思った。
日々、むさぼるようにテキストと参考書に没頭した。試験を無事に終え、教育委員会で交付された免許状を見せに、久しぶりに姉の施設へ行った。言葉が十分理解できる
時を同じくして、主治医が定年退職のため、新しく主治医を探さなくてはならなくなった結果、生存率がとても高いと評判のがん専門の病院に転院した。笑顔の優しい院長は、
「私もがん患者。一緒に頑張りましょう。」
と言ってくださった。そこでの薬が体に合ったのか、がんの勢いを示すマーカー値はじりじりと下がり続け、半年後の秋には、正常値にまで改善、体調も以前の状態に戻った。奇跡だと思えた。でもこの先も再発や悪化があるかもしれない。しかし、もう良いと思った。
「いずれの道もあの世に続く」のなら、私は自分が納得した道の上で、今日という日を精一杯に幸せに生きている。生きていこうと主治医と決めたのだから。