生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第2回エッセー部門

第2回入賞作品 − 中高生の部 
最優秀賞

雅美みやびへ」

梅本 花音(15)東京都

 お久しぶりです。お元気ですか。私は今までと変わらず毎日を過ごしています。そちらの生活はどうですか。

 あの日からもう2ヶ月がとうとしています。この2ヶ月は短いようで長かったように感じました。私が雅美みやび(仮名)のお母さんから連絡をいただいたのは6月3日のこと。正直信じられませんでした。「雅美がそんなわけ。」と。

 私が雅美の病気を知ったのは、つい半年前。ドラマなどでしか聞いたことのない言葉に初めは混乱しました。

「私、実は拡張型心筋症なの。」

 こんなにも身近にいるなんて思ってもいませんでした。それでもこの日を境に暗くなったりはせず、ずっと明るい雅美でしたね。これは本当に雅美の尊敬するところです。

 拡張型心筋症の治療法はなく、臓器移植だけが雅美を病から解放させる唯一の手段でした。ドナーの登録をしてから、移植を受けるまで患者は約千日待たなくてはいけないと知りました。その約千日は本当に心細く、つらいものだったと思います。

 4月の下旬、雅美は「ドナーの順位が高い」とうれしそうに報告してくれましたね。その時私は素直におめでとう、あと少しの辛抱だねと思いました。雅美があと数位高かったらと悔しがっていたことも知らずに。

 5月の中旬、胃の手術をしたとききました。正直私にとっては難しすぎてあまり理解できませんでしたが、本当に生きていてくれて良かったと思いました。目が覚めたらICUだったなんて、入院すらしたことのない私には経験のないことですが、どれだけ心細く不安だったかは想像できます。雅美が目を開いた時にベッドの横にいてあげたかったと何回思ったか。

 5月下旬、血液不足のため右腕を切除したと聞きました。いつもは明るい雅美が、
「酸素マスクないともう無理。死ぬかも。」
初めて弱音を吐きましたね。責めてなんかいません。ただそんな雅美が私は怖くなってしまいました。大切な友達を失うかもと怖くなってしまった私は雅美に少しそっけない対応をしてしまいました。本当にごめんなさい。雅美の方が私よりずっと怖いはずなのに。それでも雅美はずっといつもの明るさで連絡を続けてくれましたね。私もこんな状態なのに明るくふるまう雅美に応えようと怖さを全て捨てて、前向きに接するようにこころがけました。私にできることを私なりに全力で。

 そして5月31日の「私はたとえ命が短くとも私に生まれてよかったって思えるように最後まで精一杯生きるんだ。」という言葉を最後にもう連絡は途切れました。

 6月3日ひさしぶりに連絡が来ました。それは雅美のお母さんからでした。

 「雅美は6月1日未明にこの世を旅立ちました。生前に仲良くしてくれた子たちに手紙をのこしています。」
という内容でした。移植を受けることなく亡くなってしまい私は涙が止まりませんでした。

 私は腕の手術の頃から、最後に雅美に伝えたいことを考えていました。でも、いざ伝えようとなると私の手は進みませんでした。それはこの言葉を伝えたら死んでしまうのではと思ったから。別れを告げたくなかったから。私はその言葉を最後まで伝えられませんでした。お母さんから連絡が来た時、とても後悔しました。あの時、言葉にして伝えれば良かったと。だから今言わせてください。雅美に伝えたかったこと。

 雅美は本当に明るくて元気をもらっていました。本当は私があげないといけない方なのにね。雅美からはたくさんのことを学びました。私がテスト嫌だ。学校行きたくないと言った時「学校うらやましい。」と言いましたね。その時私は気付きました。私のあたりまえがみんなのあたりまえではないこと。こんな平凡な日々だけど学校に行けること。ご飯をおいしく食べられること。全てのあたりまえに感謝しなければと気付かされました。もし雅美に出会っていなかったら気付かなかったかもしれない、あたりまえのこと。気付けない人がいる中で気付けた私は幸せ者です。ありがとう。本当にありがとう。だから、これからもずっと明るい雅美でいてください。でも、疲れたら私に弱音を吐いてください。全部受けとめてみせます。雅美がしてくれたみたいに。また絶対に会いましょう。話したいことが盛りだくさんです。それでは、また。


追伸
 雅美が書いた手紙、どこにかくしたのですか。お母さんが探していましたよ。でも、そんないたずら好きな雅美が大好きです。いつかお母さんにみつけさせてあげてくださいね。私はいつまでも待っています。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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