入選
「酒肆のおかみさんは学習支援員」
山田 美與子(82)東京都
C区の地域再開発で、明治期創業の酒屋はその歴史を閉じた。
昭和36年に酒屋に嫁いだ私は、68歳までを酒屋の重労働に費やした。家業の店員、事務員、配達人、嫁、妻、義姉、母としての任は再開発を期にその様子がかわった。
結婚前は小学校教員だったことが区議会議員K氏の知るところとなり私は、69歳で区立小学校の障害児学習支援員となった。
障害児教育の知識を持たない私は、昼は学校、夜は大妻女子大学の夜間講座に2年間通い、意気の合わない夫を脇に、75歳までの6年間をJくんという知的障害また、ギランバレー症候群の後遺症を負った男児に寄り添った。
1年生入学前、私は保育園児のJくんの観察から始めた。短身、色白、
お昼寝の時間だというのに、Jくんはひとり園庭で飛び跳ねていた。ギャロップだ。疲れないのか。いつまでも----。Jくんと目を合わせることはできない。空を泳ぐその視線は無視か、私を嫌ってのことか。悩んでいる暇はない。入学式からは体力勝負の連続だった。
入学式を台無しにされては困るという担任の先生は、〝大声を出すようなことがあったら講堂から外に連れ出して下さい〟という。
担任の先生と私の不安は予想に反して、何事もなく入学式は終わった。Jくんは私の膝に顔を
聞けば文部科学省か区の教育委員からの通達かわからないが、インクルージングつまり健常児と障害児が一緒に学習するということだ。Jくんに関してのカリキュラムの用意はない。〝一緒は無理だ〟というのが私の第一日目の印象である。Jくんの母親はその日、消え入りそうな声で、クラスの父母にこんな
「Jは障害児です。皆様にご迷惑をおかけしないように山田先生に付き添っていただきます」
----と。帰り際に彼女から、母子家庭であること、夫から〝障害の血筋はお前の方だ〟と
授業が始まった。Jくんが席に着いていられるのは10分ぐらいだ。私はJくんの手を引いて校内散歩に出掛ける。私が支援員の説明を受けた折、〝子守でいいんです〟と聞いた。赤ん坊扱いはあまりに
私の膝に
Jくんに関して、多くを望まない読み書きそろばんでよい。私はそう考えた。そろばんは古い、電卓がある。6年かかってこれをJくんのポケットに入れてあげればそれでよい。
実は、もう一つJくんのポケットに入れてあげたいものがある。それは泳げることである。6年生になったJくんの最終水泳授業の時間だ。ばあちゃんと孫の入浴状態から始まって、その日は水泳検定日だ。水泳帽につける白線1本もらえるか否かの瀬戸際だった。
どんな泳ぎ方でも良い、25メートル完泳させたい。私にとっては6年間の集大成だ。
6年生ともなると二百でも何百メートルでさえ泳ぎ切る生徒は多い。Jくんにとっての25メートルは限りなく遠い。クラスメート全員の検定は終わっている。飛び込みのできないJくんを水中に入れ私は耳元でゆっくりと告げた。
「いいね、Jくん、あそこまで泳げる。やってみようか、途中で足をプールの底につけたらアウトだよ。どう。やってみる。私がそばについていくよ」
深く
「Jくん、Jくん泳げているよう。頑張れぇ。できる、できる、できているよう。あと半分」
否定するようなことは云えないのだ。立ってしまったら泳げないまま卒業することになる。叫び続ける私の目から涙が