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生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第2回エッセー部門

第2回入賞作品 − 一般の部 
読売新聞社賞

「奇跡の子」

中江 サチ(72)東京都

「うちの子は1年も待って手術の日を迎えたのです。ここで1週間先送りしてもどうってことはありません。どうか、緊急手術を必要とされているその子を助けてあげて下さい」

 私の初孫はこの一言で命を救われ、現在、22歳をおおらかに明るく生きている。

 見ず知らずの方の、その尊い有り難い、仏の慈悲のような言葉を私は片時も忘れたことはない。と同時に、手術の日を譲って下さったその子は、その後どうしているのだろう、お元気だろうかと、すべもなくただひたすらご健勝を祈るばかりである。

 孫娘に異変が起きたのは3歳のある日、わが家に遊びに来て外遊び後、昼寝から起きた時だった。いつもなら「ああ、よく寝た」とご機嫌で起きる子が、大声で泣き叫んだのだ。しばらく様子をみたが熱もあったので、息子夫婦は急いで病院へと向かった。

 診断は熱中症とのことで、点滴を受け、落ち着き、自宅に戻ったが、翌朝再び同様な症状となり、私ども夫婦は孫娘の入院を知らされた。

 様々な検査後、脳梗塞を起こしていると診断されたのは3日後。しかし原因がつかめないまま数日ったある晩、当直の心臓外科専門の医師が「心臓に疾患がある」と診断し、その病院には小児心臓外科がなかったため、翌朝救急車で都内の大病院に搬送された。

 心房に粘液腫があり、剝がれ落ちる寸前で破片が脳に飛び、左脳梗塞を起こしていたのだった。完全に剝がれ落ちた場合、心室との間を塞ぎ、いわゆる"幼児の突然死"となるところだったと聞かされた。

 原因はわかったが、脳梗塞は広がる一方であり、今にも剝がれ落ちそうな粘液腫を削除しようにも、その手術をすれば生死にかかわる。脳外科、小児心臓外科双方の医師がたえず様子を診て下さる日が続いた。

 事態が動いたのが、「今なら手術ができる」という医師たちの判断だった。しかし、その難しい手術ができる主治医はその日、1年前から手術を待ち、体調を整えるため1カ月前から入院していた子の手術を控えていた。

「何とか了承を得るため話してみましょう」という医師の言葉にわずかな希望を持ったものの、息子夫婦も私どもも、もし逆の立場だったら承諾はできないだろうと暗澹あんたんとしていた。

 それが何と、冒頭に記したような返事をいただいたのだった。

 重い障害を負ったが孫娘の生命は助かった。梗塞を起こした左脳はほとんど"空っぽ"状態、右半身不随、今後の十全な成長はなく、知能障害、車椅子生活の覚悟が必要だった。

 ところが孫娘は、ほどなく笑いながら話すようになり、装具の力を借りて歩けるようになり、普通の幼稚園に入り、小学校から高校までは障害者に理解がある私立の一貫教育校に通った。泳ぐこと、自転車に乗ること、左手を器用に使って字や絵を書き、好きで始めた日本舞踊の稽古着を一人で着る、料理する等々、健常者と変わらない年月を送ってきた。正に"奇跡"としか言いようのない出来事の連続だと私には思えるのだが、当人にその自覚はほとんどなく、常にあっけらかんとして日常を楽しんでいるように見えた。

 ただ、高校卒業後、老人施設でのアルバイトを経て、"自分らしく生きられる仕事"を探したが、健常者と同じ就活がうまくいくはずはなく悩んでいる様子も見てとれた。しかし、それでくじけてしまう孫娘ではなかった。今年になって、「おばあちゃん、あたし、思い切って障害者用ハローワークに行ったの。そしたら簡単に就職先が見つかったんだよ。いままで何にこだわっていたんだろうね、バカみたい」と、サッパリした笑顔を見せた。訊けば障害者A判定が受けられ、社員として採用され、受付業務に就いたとのこと。面接で、「私は難しいことはできないけれど、笑顔で人に接することは得意です」と言ったとか。

 孫娘のことを私は心の内で「奇跡の子」と呼んでいる。この子を育てた母親は「奇跡を生んだ女性」だ。感謝せずにはいられない。

 大学で幼児教育を学んだ母親は、特に右脳教育に関心を持っており、「人間は霊的存在」との確信のもとで、孫娘の入院から退院まで絶えず話し笑いかけ、自身が最も大きな不安を抱えているに違いないのに、常に明るく振る舞っていた。

 それから今日まで、孫娘自身のリハビリ他の努力もさることながら、賢明な母親の有り様があったからこそ、奇跡が起きたのだ。

「この子の出来ないことを思い煩うのではなく出来ることを見て出来たことを喜びたい」

 ある時彼女が言った言葉は、どんな宝石より輝かしく尊い。生命はとてもしなやかで、強いものだと思う。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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