生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第2回エッセー部門

第2回入賞作品 − 一般の部 
入選

「アルツちゃんの母と」

青木 容子(64)栃木県

 私は介護をしているというより、〝私の趣味は介護です〟というカンジだ。

 母、91才、要介護4、アルツハイマーで徘徊はいかいの常習者だ。記憶は2分しかもたない。ウルトラマンの変身持続より短い。

 私の趣味の一つは、母に老人らしくない服を着せること。母のワードローブはピンク、オレンジ、花柄、ヒラヒラの服でそろえている。朝のデイサービスのお迎えの先生に思わず「セイさん、ステキな服!」と言わせてしまうことが、ひそかな楽しみだ。

 日曜日は、ドライブ。美術館、遺跡、旧道巡り、季節の花々......ドライブのネタは事欠かない。〝長者ヶ平〟を見つけに行った那須烏山市の山の中では、雨の中遭難しかけたり、奥州街道巡りでは、道に迷い、遠回りして福島県に辿たどり着いた。母は、助手席で「左オーライ」と、ナビゲーターを務めるのだ。

 しだれ桜、彼岸花、紅葉、それらに癒やされる小旅。母のためというより、ほぼ自分の為の見たい風景なのだ。

 夏のジャズ祭りでは、一時間のライヴを一緒にスウィング。「今日の客の最高年令ですよ。」と、誉め言葉をいただいた。帰り道、レストランでの食事が終わり、母は、他のテーブルすべてに「今日はお世話になりました。」と丁寧におじぎをして回る。「どういたしまして。」と笑顔で返してくれる。母を普通の人として扱ってくれる。こちらこそありがとう。胸の熱くなる出来事だった。

 こんな母を同世代の老人が「何にもわかんなくなったんだって。」軽蔑し、バカにする人がいる。言葉はへたになったけど、心は昔と同じ。何も変わっていないよ、と強く伝えることにしている。アルツハイマーでも人格は変わらない。ちょっと表現方法がわからなくなっているだけなのだ。

 母のオムツは、ドラえもんの四次元ポケットだ。おまんじゅう半分、みかん、トイレの柄付ブラシが刀のようにささっているのには、驚いた。「すごい! お母さんのオムツには、何でも入ってるね。」オモシロがる他はない。

 夕方、デイサービスから帰るのをうずうずしながら待っている。母にマッサージをしてもらうのだ。こんな才能があったのか。強弱を付け小きざみに手を震わせ、足元から頭まで実に良い仕事をする。心の底から「これが一番幸せなんだよね。」と言ってしまう私だ。何かのスイッチが入ると、私の足先を持って「モシモシ。」と電話する。私の笑いは止まらない。

 母へのマッサージのお返しは、夜だっこして寝ること。「このあったかいのが、きもちいいんだよ。」肌から伝わる母の血液、このあったかさが母が生きている実感を認識させられる。

 ケアマネージャーさんが、「青木さん、見方を変えれば、アルツハイマーも悪くないですね。親子ゲンカもなく、だっこして寝るなんて、アルツハイマーだからじゃないですか。」そう言えば、私をお母さんと呼び、何も疑わず全身で甘えてくる。母との丁度ちょうど良い関係は、アルツハイマーだからこそなのだ。アルツハイマーをアルツちゃんと呼び、母の中のそれを許してあげようと思った瞬間だった。二人にはアルツちゃんがうまい具合に潤滑剤となっていたのだ。

 このまま、母はどうなってしまうのだろう。母のアルツちゃんは少しずつコマの芯がずれるように母を不安定にさせている。「何が何だかわかんないよー。」一日何度も言う。そんな母に毎晩耳元で「お医者さんが、お母さんは100才まで生きられるって。」と洗脳している。私の趣味の介護をもう少し長く、アルツちゃんと共に楽しみたい。「お母さんのおかげで私は元気なんだよ。」母の癒やしの言葉がアロマのように毎日私に効いている。

 先日、敬老の日、和食屋さんで店中に響く大声で暴言を吐き、暴れている老人とその家族に隣り合わせた。こういう場面も予測できたのに、食事に連れ出し、店の方に老人の暴言をびる。これが私達家族の未来形なのか。どのようなアルツちゃんの形になっても、母にヒラヒラの服を着せ、ライヴに連れて行き、花や城、絵を共に楽しむことだろう。記憶が2分しかなく帰宅するとすべて忘れてしまっても、母との生活の未来形は笑いと楽しさに満ちている予想図を描くことにしている。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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