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生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第1回エッセー部門

第1回入賞作品 − 中高生の部 
文部科学大臣賞

「笑顔の力」

河野 未実(14)東京都

 「ぼっちゃんまたね。」

 そうひいおばあさまに言われたとき、私は一瞬固まった。その時男の子に見える服装をしていたわけでも無かったし、一番おどろいたのはついこの間まで私のことを名前で呼んでいたひいおばあさまがなぜそんな間違いをしたのだろうか、ということだった。今考えると、その時からひいおばあさまの病気は進行していたのだと思う。

 ひいおばあさまの病気が分かったのは、このことがあってから少し経ったときであった。ひいおばあさまは「認知症」だったのだ。私はその時、これからひいおばあさまと過ごす日々を大切にしようと決心した。

 ひいおばあさまの記憶は日に日に薄れていった。会話が続かなくなっているなとは身をもって感じた。しかし、優しくていつも私を幸せにしてくれた笑顔は何一つ変わらなかった。私はその顔をみるたびに安心した。たしかに少しずつ自分を忘れていくひいおばあさまの姿を見ることはとてもつらいことだった。何度も前のひいおばあさまに戻ってほしいと思った。けれど楽しそうな顔で私に話しかける姿を見るとそんなつらさはまったくなくなった。

 それからひいおばあさまは勝手に出かけてしまうことがあったり、夜中に何度も家の人を起こしてしまうことがあったりする為、施設に入ることになった。そのため、私はひいおばあさまに会うことがなかなかできなくなってしまった。会わない間に忘れられてしまったらどうしようという不安もあり、私は何度も会いに行きたいと母に言った。すると、やっとのことで予定があい、行くことができた。

 久しぶりに会ったひいおばあさまは変わらぬ笑顔で私を迎えてくれた。しかし、口数は減り、とてもやせてしまっていた。私の横では母が涙ぐんでいた。その姿を見たひいおばあさまが心配そうに母を見る光景はとてもかわいそうで、私自身も涙が出そうになった。

 それからしばらく私はひいおばあさまに会いに行けていなかった。中学校へ進学したことで忙しくなり、予定があわなかったというのが大きな理由だ。しかしこの間、久々に会えることが決まった。私はうれしくてたまらなかった。

 ひいおばあさまの所へ行く当日、私はとても楽しみでずっとわくわくしていた。部屋へ入ると車いすの上でとてもやせてしまったひいおばあさまがじっとこちらを見つめていた。すると突然ひいおばあさまの目から涙がこぼれた。口がかすかに動いていたので、よく見てみると、

 「ごめんね。ごめんね」

 とくり返し言っていることが分かった。私が思わずひいおばあさまの手をにぎると、ひいおばあさまの顔にあの優しくすてきな笑顔があふれていた。私たち家族はその笑顔を見て、みんな一瞬で笑顔になった。そしてひいおばあさまの部屋には笑顔があふれていた。

 私はひいおばあさまの病気を通して、大きく二つのことを学んだ。まず一つは認知症という病気の怖さだ。ひいおばあさまはこの病気が発覚したあと薬などを飲んだが、あまり効果がなく、どんどん病気が進行してしまった。もっと早くに気がついていたら話が別だったのかもしれないが、私はその進行の速さにとてもおどろき、この病気の恐ろしさを痛感したのだった。

 そしてもう一つは「笑顔」のもたらす力の大きさだ。ひいおばあさまが私のことをどんどん忘れていってしまいとてもつらかったが、ひいおばあさまはどんな時でも笑顔だったので、私はなぜか安心した。自分のことを忘れてしまっても、この笑顔だけは忘れてほしくないなと心から思った。

 私は最後に、ひいおばあさまのことを支えてくださっていた施設の方や病院の方へ心から感謝をしたい。私に毎回安心感をくれた「笑顔」をひいおばあさまが作れるのは、毎日毎日施設の方がいい環境を整えてくださっているからだ。また、ひいおばあさまの病気と真剣に向かい合ってくださった先生方がいたからこそ今のひいおばあさまがいると思う。今書いただけでなく、本当に数えきれないほどの支えがあるからこそ、ひいおばあさまは笑顔をたやすことなく生きているのだなと思う。

 私には一つ夢がある。それは「私が二十歳はたちになるまではひいおばあさまに元気でいてほしい」ということだ。私が二十歳の時、ひいおばあさまは100歳である。大人になるという区切りの歳と100という歳を一緒に祝いたいのだ。だから、これから先もいろいろな方に支えられながら笑顔をたやさず生きてほしい。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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