生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第1回エッセー部門

第1回入賞作品 − 一般の部 
入選

「心の交流」

森田 欣也(54)愛媛県

 2017年、5月21日の日曜日、あまいたまご焼きと、5キロものお肉に、食べきれないほどのおにぎりに、野菜に、フルーツに、スウィーツに、サンドイッチとドリンクを持ち寄って、いつものバーベキュー会場に、院長一家は法事で来れなかったけど、副院長さんと、元看護師長さんと、元看護師さんと、看護師さんとその家族、事務長さん夫婦とお孫さん、今、地域医療で頑張っているT医師の奥さんのいつものすてきな笑顔に、今では大きくなった病院に、全国から来ていた理学療法士の実習生さんたちの、元気な笑顔を加えた20名ほどのひとたちが、今年も森田晴れの下集まってくれた。

 ラグビー少年だった高校3年生の18歳の時、なんの前触れもなく、突然、第3頸椎をだっきゅう骨折する事故に遭い、毎日が楽しく一番調子に乗っていた体のすべての運動機能を一瞬にして失し、全身マヒという重い障害が残った。

 その後、機能回復訓練という名目の転院を繰り返したけれど、失った体の機能が回復するどころか、車イスに座れるようになるのがやっとの状態。明日という未来さえも見れなくなり、最後の最後まで私の事を支え、守り、24時間ずっと看病し続けてくれた、大切な、大切な、大切な母を亡くした。

 作り笑顔だけが上手うまくなった7年ちょっとの入院生活を終え、大きな不安を抱えたまま、父の待つ、あたたかい自宅での生活を始めるにあたって、かかりつけとなる病院を探し、たまたま、家の近くにあった、20人ほどでいっぱいになりそうな待合室の整形外科病院にお願いしたところ、快く受け入れてくれた。そして、当時ではまだ珍しかった訪問看護で、生活の一部を支えてくれるようになって、1年半が過ぎたある日の事だった。

 「何かお手伝いできる事とか、何か用事とかありませんか。」

 と、看護師長さんが、

 「えっ、今日は来てくれる日でしたっけ。」

 テレビをながら、ひとりで留守番をしていた私のところに、

 「ちょっと昼休みで、たまたま時間が空いたから。」

 と、私より1つ年上で、非常に体格の良い、Tさんという研修医と共に、何の前触れもなく突然に来てくれた。

 「森田くんって、ラグビーをやっていたんだってね。実はぼくも高校生の時にラグビーをやっていてね。」

 と、T医師は、やわらかい笑顔で話しかけてくれた。ラグビーをやっていたという私の話をおぼえていてくれた師長さんが、時間を作って連れて来てくれたのだった。

 「○○さんとか、ラグビー部の△△先生とか知ってる。あそこのグラウンドって・・・・・・ 。」

 そのなつかしい響きに、心は壁を作るのも忘れ、

 「ぼくの嫁さんって、森田くんと高校が一緒なんよ。」

 その言葉に運命さえも感じたが、しかし、次の、

 「じゃ今度、お弁当でも持ってラグビーの試合を観に行こうか。食べたい物何かある。」

 の言葉に、

 「あっ。いいですね。」

 と、本音がこぼれ出ないように笑顔を作った。

 「じゃ今度、じゃ今度、じゃ今度・・・・・・。」

 入院中、何十回も聞いたこの言葉。わかっていた、わかっていても次こそは、ひょっとしてと思ってしまったが、そんなものは、来る事がなかった。

 障害者はいつも前向きで、明るくないといけないみたいな、周りの変なプレッシャーの中、心が壁を作り、笑顔を作れと命令するようになっていた。

 2か月後、大好きなあまいたまご焼きの入ったお弁当を乗せて、ラグビー場へとむかう車の中で、T医師と再会した。青く澄み切った空の下、心の壁のくずれる音がした。

 「へえ〜。森田くんって、本当はそんな顔して笑うんだ。もうだいじょうぶだね。」

 と、私の心の障害に気づきていてくれた、目元が母に良く似た看護師長さんが言ってくれた。あの日から26年。ラグビー観戦からバーベキュー大会となり、私の車イスに乗って遊んでいた子供たちが、理学療法士になったり、特別支援学校の教師や看護師を目指したり、この場で出会い、結ばれたふたりが子供を連れてまた参加してくれたり、いつしか森田会と呼ばれるようになった心の交流は、台風などで中止になった年もありながらも、「私たちも毎年楽しみにしているから。」というみなさんの、たくさんのすてきな愛に支えられ、森田晴れと名付けてくれたさわやかな青空の下、今年で21回目をむかえた。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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