生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第1回エッセー部門

第1回入賞作品 − 一般の部 
入選

「共感」

八木 房子(62)愛媛県

 悲しいかな、人には誰にも見えない「心の痛み」がある。

 還暦を前に、私は全身麻酔で手術をした。突然の手術の宣告にただオロオロするばかりだった。30年間の看護師生活で、手術の説明に何回立ち会ったか数え切れない。医師と患者の間に立っていつも冷静にいたはずなのに、主語が自分になったとき、これほどまで当惑するなんて思っていなかった。

 張り詰めた心で入院した。ベルトコンベアーに載った機械の部品のように事が流れていく。「お変わりありませんか?」どの看護師も同じ口調で話しかけてくる。お変わりありませんか?とかれても特に症状が変わることはない。「はい、ありません。」と作り笑顔で応えると、次の患者に話しかける。優しそうな目と忙しそうな目が交錯している。

 看護師だった頃、「病気になると孤独を感じる。」と言った患者がいた。そんな患者のつかみどころのない話を、ゆっくり聴けるほど私には余裕がなかった。今、自分が患者の立場でベッドに横になっていると、過ぎ去った患者の言動が少しずつ心にみてくる。私が白衣を着ていた長い年月に、どれだけ患者により添えただろうか。否、寄り添ってもどうすることもできない、病気は最終的には一人で闘うしかないと思っていた。だから、今度は私が自分の心と対峙たいじしなければいけないのだと思った。あの「孤独を感じる」と言った患者は自分の気持ちに寄り添ってもらいたかったのだろう。今なら、その患者に「孤独ってどんなときに感じるのですか?」と、話しかけることができるかもしれない。自分がしてきた看護が一番大切な心を置き去りにしていたのだと、今更ながら返らぬ時間が悔やまれた。

 手術前日だった。夕方遅く手術室の看護師が訪床した。若い男性の看護師は私を見て挨拶あいさつをした。若くて少し頼りなさそうに見えた。

 「八木さん、手術室看護師のAです。遅くなってすみません。明日の手術の手順をお話させてください。」

 私の顔を見ながら丁寧な口調で話しかけてきた。病室から手術室までの流れをゆっくり話した。一方的ではなく、話の要所には時間を取り確認の言葉を入れた。私に看護師の経験があったから、ある程度のことはすんなり飲み込めた。ただ、不安を抱えている心だけが追いつかなかった。病気になって社会から逸脱したような孤独感が、霧のようにかかっているのをどうすることもできなかった。説明が一通り終わった。ぐに退室されるのかと思ったそのとき、

 「八木さん、説明は一応終わったのですが何か心配や不安はないですか?」

 私が心底待っていた言葉だった。声に温かみがあった。ふと、私の心を見透かされているような気がした。同時に今まで張り詰めていた心のたがが外れた。

 「私ね、心配なの。耳の手術は顕微鏡で医師一人がされるのでしょう、新聞では医療事故の報道もあるし・・・・・・。考えていたら心が壊れそうなのよ。」

 高揚した自分の声が、弱みを一杯さらけ出しているようで哀れで悲しかった。

 突然、

 「そうですよね、手術するなんて怖いですよね、誰だって不安ですよ・・・・・・」

 私の思いを待っていたかのように、さっと言葉が返ってきた。Aさんは少し身を乗り出し、まるで今までに私と面識があったような親しみを投げかけてくれた。心にパッと明かりが灯った。子供の頃、夏祭りで見た母の笑顔のようだった。手術は一人の医師が顕微鏡を見ながらするが、顕微鏡は二人の医師が見えるようになっていることなど詳細に話し、ニコッと笑った。安心したと言うより私はただただうれしかった。こんなに若いAさんが私の思いに共感してくれたことが夢のようだった。病気になって初めて人の目を見て一緒に笑った。どんな時でも、自分に寄り添ってくれる誰かがいるのだと思った。自分が心を開き謙虚な気持ちになったとき、人は救われるのかも知れない。

 私はこれで明日の手術を自分の意思で受けることができる。Aさんに不安を聴いてもらったことで、私は一人ではないのだ、誰かがそばにいて人の悲しみを見ているのだと感じた。Aさんに出会えたのは偶然ではない。人は誰でも優しさを備えている。それを上手に引き寄せるのは自分でもあるのだと思った。

 夜が明けた。心は落ち着いていた。大丈夫と言い聞かせながら手術着に着替えスニーカーを履いた。スリッパは転倒防止で禁じられている。ちぐはぐな私の格好に娘が笑っていた。自分でも可笑おかしかったのでニコッと笑い返した。心の片隅に、一瞬不安がよぎったが何があっても私の人生だと思えた。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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