生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第1回エッセー部門

第1回入賞作品 − 一般の部 
厚生労働大臣賞

「寄り添う眼差しに」

重信 雅美(56)東京都

 町外れの山の中腹に、その病院はひっそりとたたずんでいた。地域で暮らす子どもたちにとって、そこは不用意に立ち入ってはならない「異界」であり、一度迷い込んだら、二度と社会には戻ることができない恐ろしい場所なのだと、大人たちから言い聞かされていた。

 私の母が、その異界の住人になったのは、私が15歳の時。母、39歳。薬物に溺れ奇行を繰り返し、警察に保護されて強制入院の措置がとられた。子どもの頃から恐れていた異界に、母は吸い寄せられるように行ってしまった。しかも、人間であることを放棄して。私は、泣くことも怒ることもできず、ただぼんやりと、

 『幸せな未来なんて、もう望むことはできないのだろうな』

 と考えていた。

 母が入院して、7年がった頃だった。母の保護義務者だった祖母が亡くなった。私は、東京で一人暮らしを始めていたが、市の職員から電話があり、祖母の代わりに保護義務者を担えと迫られた。母と離婚をした父や未成年の弟に、それを押し付けることはできない。母の親族は、皆、拒否したのだという。「形だけだから」と言い含められて従った。すると、早々に病院のケースワーカーを名乗る女性から電話が掛かってきた。母に関することを矢継ぎ早に質問した後、彼女は柔らかい口調でこう言った。

 「今日はお話が出来て良かったです。ほとんどお見舞いにも来られないので、私、お母様は見捨てられたんじゃないかと思って心配していました。お母様のこと、見捨てないであげてくださいね」

 頭から足元まで、一気に血が下がったような気がした。

 『見捨てないで? 見捨てられたのは、私の方! あの人が、私たち家族にどんなひどいことをしたのか、何も知らないくせに!』

 言い返したかったけれど、ノドがギュッと締めつけられたように感じて、声が出せなかった。酷く殴りつけられたことや、錯乱した行為の数々が思い出された。電話を切った後、『今後、一切の連絡を拒否します』とハガキに書き、病院に送り付けた。

 数日後、封書が届いた。白い便箋に丁寧な文字でしたためられている。先代の院長夫人であり、看護師長でもある人からの手紙だった。

 『あなたの悲しみは如何いかばかりかと、お察し致します。幼い頃から、大変な経験をされましたね。私はお父様にも、お祖母ばあ様にもお会いしてお話を伺っています。つらいことを、あなたがこれ以上背負わなくても良いように、私たちも何等かの対策を考えて行きたいと思っています。どうぞ、お母様のことはご心配なさらずにいてください』

 私は、気が抜けたように座り込むと、声を上げて泣いた。私や母のような人間に、寄り添ってくれる人がいる。母が去ったあの日から、事情を知る大人は皆、口を閉ざしてしまった。私の中の不安や悲しみに、耳を傾けてくれる人は一人もいなかった。握りしめた手紙から、看護師長さんのぬくもりが、静かに伝わってくるような気がした。

 『先日、みんなでブドウ狩りに行きました。お母様は、随分たくさん収穫されていましたよ。とても楽しかったとのことです』

 『お母様は、他の患者さんたちからママと呼ばれて慕われています。面倒見の良い方ですね』

 『クリスマスパーティーで、歌を披露されました。なかなかの歌唱力です!』

 折に触れ届く手紙には、人間としての母の暮らしがつづられていた。母の日常を、温かい眼差まなざしで見つめ寄り添う人がいる。それだけで十分だと思った。そして手紙の封を切る度に、私と母が救われて行くように感じられた。

 それでも、母に会うことは、さらに長い時間を要した。再会がかなった日、病棟の奥にある鍵のかかった扉を開けると、その先の長い廊下の途中に、笑顔の母が立っていた。白髪が増えて小さくなっていたけれど、そっと手を取ると、手をつないで歩いていた頃と何も変わらない母の手がそこにあった。

 看護師長さんは、病める人たちも等しく、尊厳ある人間なのだと私に教えてくれた。手紙のやり取りが途絶えて程なく、ご病気で旅立たれたと伺った。母もまた、40年間の入院生活を終えて、2年前に眠るように逝った。私は、たったひとりで母を見送った。

 私は今、精神科のデイケアプログラムで、声を出すことの楽しさを患者さんに伝えている。看護師長さんと母が、寄り添うようにそばにいてくれるのを感じる時がある。私は2人の眼差しと共に、幸せな未来を生きている。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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