生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第8回エッセー部門

第8回入賞作品 − 一般の部 
審査員特別賞

掌の記憶

原 貴子(34)東京都

 透析の時間になると、母は「母」から「職人」の顔になる。

 看護師から褒められた手際の良さで、(よど)みなく透析する様子は熟練そのもの。ベッドで横になる私の目に、ちらりと母の指先が映った。(めく)れた皮膚が、まるで断層のように折り重なっている。お世辞にも綺麗(きれい)と言い難い母の手は、私の治療のためによるものだった。

 1歳の頃、私は先天性ネフローゼ症候群を発症した。この病気は、腎臓の機能が著しく低下し、体内の老廃物を排出できなくなる。この腎臓の役割を代わりに果たすのが、人工透析と呼ばれる治療だ。まだ赤んぼうだった私は、腹膜透析の治療が決まった。腹膜透析とは、腹膜に挿入されたカテーテルから透析液を入れる治療方法だ。()まった透析液は、腹膜で老廃物や不要な水分を()しとる。頃合いを見計らって排液し、また新しい透析液と交換して体内を綺麗にしていく。手順さえ覚えれば自宅でもできるこの治療を、母は病院から義務付けられた。

 透析するわよ、という母の掛け声とともに、透析の時間は始まる。部屋の扉が閉まったのを確認すると、私は壊れものを扱うようにお腹からカテーテルを取り出す。見上げた先の天井が(まぶ)しい。普段はこっそり私の腹巻のしたで眠るこの管も、透析の時間では主役だ。

 透析する時の母は、普段とは一転して険しい眼差しになる。透析液の濃さを見極めるその目つきは、どんな些細(ささい)な違和感も見逃すまいとしている。排出された透析液の濃度により、老廃物が十分排出されたかが決まるからだ。更に、透析液の袋の裏がわが見えるほどに透明で、()り下げた時にずっしりと重たくなっているほうがいい。

 1日に4回おこなわれる腹膜透析により、母は特に手洗いに神経を使っていた。少しでも手洗いを怠れば、カテーテルに細菌が侵入し、透析液が濁る。そうなれば、カテーテルの交換をしなければならない。その可能性を危惧し、日頃から清潔を心がけていたのだ。

 そうして何度も消毒するうちに、母の指先は少しずつ皮が捲れ、傷が目立つようになった。だから、記憶のなかの母の手はいつもささくれている。夏は勿論(もちろん)のこと、冬になればますます乾燥する。痛みに顔を(しか)めながらも、母は自分の役割を黙々とこなしていた。

 一方、私といえば、自分が病気であることも、透析が何を意味するのかも理解していなかった。透析は私にとって日常の一部であったし、皆同じなのだろうと思い込んでいたのだ。だから、小学校でほかの子達の体にはカテーテルがないことを知った時には、そちらに違和感を抱いたほどだ。だから、同級生の母親達の手を目にするたびに、無意識に母のものと比べようとする自分の考えを振り払っていた。

 私は、母の指先をいじりながら、(たず)ねた。

「お母さんの手って、ちょっとざらざらしてるよね。」

 私に指先を()まれ、母は返答に窮した。なかなか答えようとしない母に、ほんの少し意地悪な気持ちが芽生えた。私は、ぱっと手を離した。

「ほかのお母さんの手みたいに、もっと綺麗な手だったら良かったのに。」

 ほんの軽口のつもりだった。

 私にとって些細な冗談が、母をどれほど傷つけたか。今となって、自分の愚かさを恥じる。思いだそうとしても、記憶の母はいつも笑顔だ。その笑顔の裏側で、私に異常が起きないよう、いつも張り詰めた想いで透析をしていたのだ。思えば、私の人生において最も近くで病気と向き合ってくれていたのが、紛れもない母だった。

 あの日々から数十年、私の病気は完治していないが、治療しながらも穏やかな日々を過ごせている。涙をのんだこともあったが、今の私があるのは母をはじめとした家族が支えてくれたおかげだ。

 ふと、母に()いてみたことがある。

「お母さんって、今でも腹膜透析の治療ってできるの?」

 私の問いに、母は一瞬考えてから、

「できるわね。」

と、きっぱり答えた。驚く私に構うことなく、母は言葉を続けた。

「そりゃあ、毎日治療していたんだもの。どんなに時間が経っても、この手がずっと覚えていてくれているのよ。」

 そう言って、私の目の前に得意げに自分の掌を突き出してみせた。かつて、この掌は私の治療のために心を砕いたことで、傷だらけになった。母の愛情の証であるその指先は、こうしている今も新たな時間を刻んでいる。

 母は、私にとって生涯(かな)わない人だ。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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