生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第8回エッセー部門

第8回入賞作品 − 中高生の部 
優秀賞

生命の価値

ンバ 桃理愛(16)東京都

 生命と聞いて、力強さや輝きを感じる人が多いであろう。しかし私は同時に無力さを感じる。

 私は幼少期をアフリカで過ごした。そこでは死が日本よりずっと身近にあった。先週まで一緒に遊んでいた子をしばらく見ないと思っていたら、マラリアで亡くなったと聞かされたり、妊婦の親戚が出産中に亡くなったり、まだ小さい赤ちゃんが下痢の長期化により亡くなった話もよく聞いた。ついこの前まで目の前にいた人がいなくなる。幼いながらにこの出来事は、悲しいというよりも、とても不思議な感覚に陥っていた。

 日本では、赤ちゃんが生まれ、成長していくことが当たり前のように感じる。亡くなる時は、長い病院生活を送った後で、急に亡くなるのは事故に限られていて、それ以外で突然に亡くなることが特別なように感じる。風邪や下痢といったありふれた病気であっという間に生命が奪われてしまう。これは幼い私にとってあまりにも現実味がなかった。しかしいつまで経ってもその人には会えない。この現実に大きな絶望感を味わった。幼い弟や妹がマラリアで高熱を出すと、明日にはいなくなってしまうのではないかと恐ろしくなり夜も眠れない日もあった。少し難しい手術が必要な時は、飛行機に乗ってヨーロッパに行く必要があるが、その資金が調達できず家族を亡くす人もいる。コロナ禍では、このような状況が多くみられた。人工呼吸器を(つな)げる資金が無く、泣く泣く家族を亡くす人がたくさん出た。人工呼吸器をつけるお金は日本円で2万円ほどであった。彼らの命は2万円の価値もないのか。そんな自問自答を繰り返す日々であった。今自分のお小遣いから2万円を出すと、誰かを助けることができるかもしれない。でもそれではきりがない。しかし、一人でも救うべきではないのか。そんなことをして意味があるのか。こんな考えがぐるぐると自分の中で堂々巡りを繰り返した。今でもこの答えは出ていない。しかし、国連が提唱したSDGs開発目標に出会って少しヒントをもらった気がしている。

 誰一人取り残さないを目標に、持続可能な社会を作るためのこのイニシアチブは、様々な分野で17の目標を掲げている。私は、これに感銘を受け、アフリカでSDGs開発目標の啓蒙(けいもう)活動をするボランティアに所属し、年に何度か活動をしている。SDGs開発目標の目標3は、「すべての人に健康と福祉を」と掲げている。健康には毎日の食事や栄養管理が必須である。病気にならない、下痢にならない知識を身に付けることが必要である。農村部に行き、子ども達に手洗いの重要性を説明するワークショップを開催したり、若い妊婦さんに栄養の大切さを説明したりした。そうすることで、徐々にではあるけれども、多くの人が長生きをし、健康的に暮らせる可能性が広がると信じている。一時的な援助も時には大切であるが、継続でき多くの人に広められる方法が今私にできる大事なことだと考える。手洗いの重要性を知った子ども達が成長し、弟妹また子ども達に同じような衛生観念を教えることで、1回のワークショップでの参加者の何倍もの人を助けることができ、その人自身、またその家族の生命を輝かせることができるのである。

 アフリカの人達は、どんな環境でもたくましく生きています。満足なものがろくになくても、空き地ではだしでサッカーをして遊ぶ子ども達の輝きにあふれた笑顔がそこら中にあります。赤ちゃんが生まれた時、手術が成功した時、彼らは大きなお祭りを開いて朝までごちそうを食べ、踊って、歌って、お祝いをする。その時のみんなの安堵(あんど)の入り混じった(うれ)しそうな弾ける笑顔は何にも代えがたい。

 生命の価値はみな平等であるはずだ。しかし、救える生命にはまだまだ地域や貧富によって格差が残っている。その上医療でどうしようもできないことが現代医療をもってしてもある。SDGs開発目標が掲げる2030年には誰一人取り残さない世界を実現できるよう、若い世代の私達ができることをしていきたい。そして、一つ一つの命に真剣に向き合い一生懸命生きていくことで、自分自身の生命をもっともっと輝かせ価値あるものにすることができると考える。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

過去の作品

PAGE TOP