入選
「生きてこそ」
河島 憲代(75)静岡県
春あさい朝のこと。
「お母さん、双子なの。11月頃の予定日。」と、F市にある会社の社宅に住む娘から、電話がくる。
「それは、おめでとう。こうちゃんが、2人のお兄ちゃんになるんだね。」
娘には、5月に2才になる子がいる。
「それでね、T君と話しあって、こっちでは子育て無理だから、H市に帰る。よろしくね。」
それからだった。なんという早わざか。
アパートを我が家の近くに決め、引っ越して来た。
娘の夫、T君は、希望して入社した会社を退職。その月のうちに、H市の会社に入社。
娘は、F市の病院からの紹介状を持ってH市の病院に。娘夫婦の決断に心がふるえた。
「双子だと、管理入院が何日もあるって。こうちゃんをお願い。」
あれよあれよという間に、私と主人は、こうちゃんのお世話をさせてもらうことになる。
私は、スーパーのパートをやめ、孫と暮らすしたくを進めた。主人は、にぎやかになると喜んだ。
主人は、娘が小学6年生の冬、くも膜下出血で命とひきかえのように左半身マヒの体に。教職を退き、長くてつらいリハビリ生活をしている。
「よし。こうちゃんが来たら、毎日一緒に散歩だな。」
そういって、
娘のお腹は、びっくりするほどの大きさになっていく。私は、4人の子に恵まれたが、双子の様子は何もわからない。娘に内緒で、『双子妊娠・出産・育児』の本を買い読む。
いよいよ、管理入院が始まった。しかも、その間に、双胎間輸血症候群の処置を行うということになった。レーザーによって、胎盤内の血液が交流している部分を焼き切る治療だという。初めて聞くその症病名に、
「どうか二つの小さな命をつないで。娘を守って。」と、祈るしかなかった。
「2人とも同じように育ってほしいから、主治医の先生にまかせるしかないよ。」
娘は、気丈だった。
私は、いよいよ、こうちゃんのお世話だ。育児にはずいぶんとブランクがある。ママのいないさみしさをどうしてやればと不安いっぱい。毎日、近くの田んぼ道を主人とこうちゃん、私の3人で歩く。杖をついて歩く主人の横を、何か話しながらこうちゃんは行く。そのうち、こうちゃんを抱っこして、私が歌うのは、いつも「トンボのめがね」だった。
私の胸で眠るこうちゃんは、ただただいとおしい。
入院中のママに会いに行っても、自分の今がわかるかのように「ママ、バイバイ。」と、あっさりしていて、娘の方がさみしがった。
仕事帰りにT君が来ると「パパー」と飛びついて行く。さみしさをいっきに爆発させた。
娘は、体調の良い時には、こうちゃんを公園に連れて行く。もちろん私も一緒に。その時のこうちゃんの笑顔と目の輝きは、私には見せない喜びにあふれていた。
11月、無事出産。よく似た顔をした2人の小さな赤ちゃん。
(うまれてきてくれて、ありがとう)
私は、心の中で何度も言った。
2才半となったこうちゃんは、とても活発になる。田んぼ道の散歩も、
「ジイジ! カマキリとね、ぼくにらめっこしたんだ。」
「あのね、パンと手をたたいたら、木にいたスズメが、みんな飛んでいったあ。」と、楽しそうにかけまわった。オオバコを見つけると、私と草ずもう。
家に、退院してきたママ。双子の弟たちがいつもいる。その安心感が、こうちゃんの心をおだやかにしていた。
主人も、声をたてて笑うことが増えた。
生まれたての小さな命が、こんなにも喜びを運んでくるのだと感動した。
小柄でおっとり育った娘が、双子を抱えて左右のおっぱいをあげるたくましさだ。
2ヶ月ほどして、娘家族はアパートに帰っていった。今度は、私が自転車で通う番。
なんと、孫たちの成長がはやいことだろう。
幼稚園の夏まつり。小学校の運動会。そのたびに、私は、主人と出かけて行った。
そしてそして、田んぼ道を一緒に散歩したこうちゃんは、18才の受験生。もう成人だ。
ずっと一緒に大きくなってきた双子は、この春、それぞれの高校を選択。別々の学校のグラウンドでサッカーに励んでいる。
車イス生活の主人は、今、言葉を失いつつある。それでも、
「ジイジ、ピースね。」と孫たちの問いかけに目を細め、かすかにほほをゆるめてうなずく。右手を小さく上げピースのかっこうをする。
若い命の輝きに、生きてこそみせる主人のなせるわざに、胸がきゅっとなる。