生命を見つめるフォト&エッセー

受賞作品

第6回エッセー部門

第6回入賞作品 − 中高生の部 
優秀賞

「「意思疎通」は難しい」

武知 涼太(16)愛媛県

 小学6年生の冬、私は意思疎通することの難しさを痛感した。なぜなら「大好き」そんな簡単なことも言えなかったからだ。

 小学5年生になって友達も増え、健康で明るい楽しい生活を送っていた。また思春期真っ只中で、親に素直になれない我ままな子どもであった。しかし反抗期だったとはいえ、家族のことが大好きだった。正直今の幸せな生活が、ずっと続けばいいなと思っていた。

 もうすぐ春を迎え暖かくなってきた日のこと。いつも通り帰宅しゲームをし始めた。すると母が、

「大切な話があるから聞いてくれる?」と、言ったので何だろうと思った。そして、母が告げたのは、「がん」になったということだった。あまりの衝撃に言葉を失った。そして不安定な気持ちを落ち着かせるために、深呼吸をした。長い沈黙が続いた。風が窓をたたく音がよく聞こえた。しばらくして、母が泣き始めた。素直になれない私は、泣きたかったけれども親の前では泣かなかった。その後母と一緒に欲しい物を買いに行った。普段は高くて買わないようなものを、奮発して買ってくれた。その時母が見せた笑顔は、どこか悲しさを浮かべているような気がした。

 小学生だったので「癌に対する知識」はあまりなかった。強いて言うならば、ドラマで少し見たくらいだった。しばらくして私は、

「母はこれからどうなるのだろう」と、思い始めた。そしてネットを探していると、「死」という文字がたくさん出てきた。この時初めて人の生死を実感した。そして家族の一員として癌をもっと知るべきだと思った。

 小学6年生に進級し、何事もなくあっという間に夏休みが来た。大きな病院で私と同じような、親が病気の子ども向けの交流会があることを知り、参加させてもらった。そこで顕微鏡で「癌」を見たり、点滴の仕方を教えてもらったりした。何よりも親が「癌」なのは、自分だけじゃないという安心感に包まれた。また親身になって話を聞いてくれる、優しい医師とも出会うことができた。その一方で、母の病気は少し悪化した。さらに薬の副作用で髪が抜けたり、嘔吐おうとしているのを見ていると悲しくなった。父も忙しくなり、弟と2人で過ごす時間が多くなった。病魔は母の健康と家族の時間をどんどんむしばんでいった。

 夏休みが終わり学校では、音楽発表会の時期になった。母の体調も少し良くなり、私の演奏と歌声を聞いてくれてとてもうれしかった。母が元気良く友達と話しているのを見て、とても感動した。このまま良くなると確信していた。しかしある日家に帰ると、母はいなかった。すると普段滅多めったに泣かない父が泣いた。私は何も知らされていなかったが、何かを察して号泣してしまった。そして父が、

「お母さん頑張ったんやけどね駄目やったんよ。『癌』が全身に転移して、」

その先は聞きとれなかった。めていた感情が、一気に涙となってあふれた。私はただひたすら手で顔をこすった。そして、

「お母さんに早く会いたい。」と、私は言った。夜であったが病院に行った。そして母に抱きついた。寝たきりだけど、しゃべれたのでたくさん話した。時間が短く感じた。交流で出会った先生が、母の状態について優しく分かりやすく教えてくれた。そして病院に行く度に話を聞いてくれた。

 そしてとうとう母が喋ることができなくなった。覚悟はしていたが、悲しかった。その時いつも話してくれる先生が、母からの手紙を渡してくれた。その手紙には、

「口でいえなくてごめん」や「大好き」

などの文字がつづられていた。思わず涙が出た。病室に行き私も「大好き」と言おうとしたが、恥ずかしさのため言えなかった。ただひたすら手を握り、見つめることしかできなかった。精神がぐちゃぐちゃになり、おかしくなりそうだった。しかし前母が言っていた、

「この大きな壁をきっと乗り越えられる」という言葉を思い出し強く生きようと思った。そして9ヶ月という長い闘病期間の末、母は亡くなった。ひつぎには母との思い出のつまった、ぬいぐるみや服を入れた。なんだか笑っているような気がした。そしてしっかりと母の背を、押すことができたと思う。

 母が亡くなって約4年が経った。たとえ形、姿がなくても、心の中で私を応援してくれていると思う。また私は思いを伝えられず、後悔した。だからこれからは、恐れず恥ずかしがらず気持ちを伝えようと思った。そして世界中で病気で苦しんでいる人の分、今という一瞬を精一杯生きようと思った。

(敬称略・年齢、学年などは応募締め切り時点)
(注)入賞作品を無断で使用したり、転用したり、個人、家庭での読書以外の目的で複写することは法律で禁じられています。

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